倉敷のマルナカ天城店の近くに「御崎神社」があります。
ここもまた、源平「藤戸の戦い」の関連史跡のよう。
このように、看板が出ています。
ここから、東に入って、すぐ。
「御崎」という名前の通り、この辺りは、かつて、海だった。
その海の中にあったのであろうと思われる岩が、一つ、ありました。
神社の由緒の書かれた看板があります。
鳥居の前に、石が積まれたものがありました。
誰かが、信仰心から、積んだものでしょうか。
こちらは、鳥居の右手にあったもの。
木柱には「三笠宮、植樹記念」とありました。支えをしてある木が、そうなのでしょう。「昭和26年」という年号もありました。
なぜ、ここに、三笠宮さまが、と、思ったところです。
こちらが、正面、入り口の鳥居です。
ここから、石段を上がります。
右の狛犬。
鳥居、左手。石灯籠には「天保十年」の年号があったようです。
石段を登ると、境内。
正面、拝殿ですかね。
それほど、広くはないよう。
石段を登った右手。「百度石」があります。
狛犬は、かなり、古いもののよう。
狛犬と、左の石灯籠は、相当に古い。いつの時代のものなのでしょう。
こちらは、右手の石灯籠と狛犬。
長年の雨風の影響で、石が浸食されているのが、よく分かる。
ネットによれば、正治元年(1199)に、佐々木盛綱が、少し、上にあった神社を、この場所に移したということなので、もしかすると、この石灯籠と狛犬は、その時のものなのでしょうか。
ちなみに、この御崎神社は、佐々木盛綱が、出陣の前に、社頭の松の前に旗を立てて、戦勝を祈った場所だそう。
もともとは、高坪山の山頂にあったという話。
この高坪山山麓に布陣をした佐々木盛綱が、山頂にあった八幡宮に、戦勝祈願をしたということのよう。
ちなみに、この「藤戸合戦」で戦った佐々木盛綱ですが、この山陽道を進む源氏の大将は、源範頼。
佐々木盛綱は、この源範頼配下の武士ということになる。
この源範頼の率いる軍勢は、九州を目指していたのですが、極度の食料難に悩まされることになる。
行軍は、相当に、難航をしたよう。
この「藤戸の戦い」は、その中で起きた合戦、と、言うことになる。
なぜ、源範頼の軍勢が、九州を目指していたのかと言えば、平家の軍勢を、瀬戸内で孤立をさせるため。
なぜ、平家が「壇之浦」で滅びたのかと言えば、山陽道と九州を、源範頼が平定、支配し、源義経が、平家の拠点だった讃岐国屋島を攻略したため。
つまり、もはや、平家に逃げ場は無かったということ。
ちなみに、こちらは、灘崎の田んぼの風景。
まだ、稲刈り前の田んぼも、多く、残っています。