本田哲郎「釜ヶ崎と福音」という本があります。

 

本田哲郎さんは、カトリック教会の神父さんで、かなり、偉い立場にまでなった人だそう。

しかし、この「釜ヶ崎と福音」という本は、内容が、かなり独特で、もしかすると、この本の内容は、キリスト教の熱心な信者からすれば、受け入れることが出来るものではないのかも知れない。

しかし、それは、作家の遠藤周作さんのキリスト教、イエス・キリストに対する解釈と同じで、むしろ、あまり、キリスト教に縁の深い訳ではない一般の日本人の感覚からすると、かえって、理解をしやすいということになるのかも知れない。

僕もまた、遠藤周作さんのキリスト教、イエス・キリスト観と共に、この本に書かれた本田哲郎さんのキリスト教観、イエス・キリスト観にもまた、共感できるものがあるところ。

 

 

この本には、本田さんが経験をした、いわゆる「宗教体験」が書かれている。

僕の解釈としては、この「宗教体験」とは、自分の「信仰心」に、絶対的に、大きな影響を与え、その後の宗教活動に大きな経験を与えた体験のこと。

 

本のタイトルにある「釜ヶ崎」とは、大阪の「あいりん地区」と言った方が、通りが良いでしょう。

そこは、日雇い労働者の集まる場所として有名で、路上生活者の人も多い。

 

本田さんは、いわゆる、ごく普通の、典型的な、一人の神父さんとして、この釜ヶ崎の教会にやってくることになる。

最初のうちは、本田さんもまた、他の一般の人たちと同じように、釜ヶ崎に集まる労働者、路上生活者の人たちに対して、恐れや、不安のような感覚を持っていたのですが、教会の神父として、彼らの生活を助けるボランティア活動にも、強制的に参加をしなければならない立場となる。

最初のうちは、恐る恐る、他の人たちに混じって、尻込みをしながらボランティア活動を手伝って本田さんは、ある出来事をきっかけに、自身の心を、大きく揺さぶられる体験をした。

この「心を、大きく揺さぶられる体験」は、まさに「宗教体験」ということになるのではないですかね。

そして、本田さんは、自分の「信仰心」を見直し、新たに、キリスト教、そして、イエス・キリストに関する考えを、大きく転換させることになる。

 

この本に書かれている要点を、一言で言えば、「神は、どこに居るのか」ということ。

そして、「神は、誰のために居るのか」ということ。

 

普通、「唯一、絶対の神」は、天の上、遥か、彼方に居ると考えられている。

普通、人が「神」を探すのなら、天空を見上げるという行動をするでしょう。

 

そして、この「神」に仕え、そして、「神」のことを人々に伝えることになるキリスト教の聖職者の人たちもまた、「上」の立場から、「下」に居る民衆を指導するという関係になる。

それは、本田神父の意識もまた、この釜ヶ崎に来るまでは、同じ意識だった。

 

しかし、本田さんは、釜ヶ崎で、日雇い労働の人たち、路上生活者の人たちと接したことで、内面に劇的な変化が起き、この宗教者としての常識に、大きな疑問を持った。

そして、「聖書」を、改めて読み直し、キリスト教への、それまでの解釈を変えることになる。

 

「神」は、遥か、彼方の天空ではなく、「下」に居るのではないか。

 

そして、「神」は、釜ヶ崎の日雇い労働者、路上生活者のような「貧しく、小さくされた者」と共に、存在をしているのではないか。

 

改めて「聖書」を読み直してみると、「聖書」には、ちゃんと、そう書かれているではないか、と、本田さんは、この本に書いています。

 

そして、この本の中には、「聖書」や「神」のことだけではなく、やはり、本田さんが、実際に、接している、日雇い労働の人たちや、路上生活をしている人たちが、実際に、どのような人たちで、どのような考えを持って、その地、その立場で生きているのかということも、詳しく書かれています。

彼らのような「貧しく、小さくされた人たち」が、社会から押し出されたままで、十分な支援も受けられないまま、放置をされていても良いのか。

そういうことに関する憤りも感じます。

 

やはり、この世界で、「神」の存在を必要としているのは、今、自分の力では、どうにもならない不幸の中に居る人たちですよね。

「神」は、そういった人たちと共に居るものと思いたいところです。