さて、「三国志」と言えば、中国の歴史。
でも、なぜか、日本でも大人気。
何で、でしょう。
やはり、吉川英治の小説「三国志」、そして、横山光輝の漫画「三国志」の影響でしょうかね。
もっとも、どちらも、ベースにしているのは、「三国志演義」なのでしょう。
この「三国志演義」の物語が、とても面白いので、当然、吉川英治、横山光輝の「三国志」もまた、面白いということになる。
僕もまた、中学生の時に、吉川英治の「三国志」を読み、そも面白さに熱中をしたものです。
しかし、歴史ファンとしては、物語よりも「史実」としての「三国志」がどのようなものだったのかということに興味がある。
正史「三国志」を読むべきなのでしょうが、その機会は、これまで、無かった。
しかし、「三国志」に関連する本は、当時、かなり読んだので、印象に残っていることを、いくつか。
もっとも、もう20年から30年も前の話なので、今の研究では、また、違っているのかも知れませんが。
さて、この「三国志」とは、漢帝国末期から、「魏」「呉」「蜀」の建国。
そして、この三国が、「晋」に統一されるまでの話。
物語「三国志演義」では、蜀の劉備を主人公にしていますが、歴史の流れとしては、当然、漢帝国を受け継いだ魏の曹操が、正統となる。
民衆反乱である「黄巾の乱」によって、漢帝国は、大きく弱体化をする訳ですが、その中で、台頭をして来たのが、新興勢力の曹操ということになる。
なぜ、曹操が、台頭をすることが出来たのか。
曹操自身が、超一流の人物だったことは当然として、もう一つ、要因があったそうですね。
それは、「名士」と呼ばれる人たちの存在。
実は、当時、この「名士」と呼ばれる人たちが、中国の社会で、大きな役割を果たしていたようですね。
この「名士」が、どういう人なのかと言えば、平たく言うと「世間で、尊敬され、衆望を集める人」といった感じの人たちだったそう。
この「名士」には、全国的に名高い名士も居れば、その地域で有名な名士も居る。
彼ら「名士」の支持が無ければ、いかに、優秀な人物と言えども、社会を支配することは困難だったようです。
そして、この曹操に目を付けたのは、中国全土で名声の高かった名士の「荀彧」です。
荀彧は、この曹操を支持し、漢帝国の復興を目指す道を選ぶ。
そして、荀彧は、多くの名士たちを曹操に推薦し、曹操に仕えさせます。
これが、曹操の躍進の、大きな原動力になったよう。
そして、荀彧の人を見る目は確かで、曹操は、その優れた軍事的才能、政治的才能で、強敵を次々と打ち破り、中原に覇を唱えることに成功した。
これは、呉の孫権の場合も同じです。
元々、呉の基盤を築いたのは、孫権の兄、孫策ですが、孫策が、名士である周瑜と昵懇の仲だったのは有名な話。
そして、孫策の後を継いだ孫権は、周瑜、そして、魯粛、呂蒙、陸遜といった名士たちに支えられ、呉の国を維持して行くことになる。
そして、劉備の場合。
劉備という人物は、「劉」と言う姓から、漢帝国皇帝の子孫と言われていますが、それは、恐らく、でっち上げでしょう。
そして、「黄巾の乱」の時に、義勇兵を組織して、各地で活動をするものの、なかなか、自分の支配する領地を持つことが出来なかった。
なぜ、劉備が、傭兵軍団のリーダーとして、各地を転々としなければならなかったのか。
それは、「名士」の支持を、受けることが出来なかったから。
袁紹を打ち破った曹操が、中原を支配すると、劉備は、荊州に逃げ込みます。
ここで劉表の保護を受けて、しばらく過ごす訳ですが、そこで、劉備は、諸葛亮と出会うことになる。
この諸葛亮は、荊州の名士で、劉備は、ここで、やっと、名士の支持を受け、家臣として召し抱えることになる。
そして、諸葛亮を通じて、荊州の名士たちが、次々と劉備に仕えることになる。
これが、「赤壁の戦い」の後、これといって功績の無かった劉備が、荊州を支配するきっかけとなります。
ここで、やっと、劉備は、自分の領地を持つことが出来ます。
この「名士」の支持が無ければ、土地、人民を支配することが出来ないというのは、「益州」の例を見ても、よく分かります。
当時、益州の支配者だったのは劉璋という人物。
しかし、益州の名士たちは、この劉璋を見限り、荊州の劉備を、自分たちの支配者として迎えようと動き出します。
具体的には、張松、法正といった名士たちが、劉備を益州に引き込むことになる。
そして、劉備は、益州の成都に入り、曹操の「魏」、孫権の「呉」に対抗する「蜀」を建国することになります。
しかし、この「主君」と「名士」の関係には、なかなか、微妙なものがあったよう。
優れた「名士」は、逆に言えば、「主君」の大きな障害にもなりかねない。
優れた能力を持つ家臣が、主君に警戒され、主君によって殺害されるというのは、中国の歴史では、よくある話。
荀彧は、曹操と意見が対立し、自害に追い込まれます。
また、「赤壁の戦い」の前には、孫権は、名士たちと「和平か、戦争か」で、意見が分かれ、対立をすることに。
そして、これは、劉備もまた、例外ではない。
劉備は、諸葛亮を重用しながらも、警戒を続けていたようですね。
自分の下で、実権を握る諸葛亮に対抗できる人物を、劉備は探し続けていたよう。
まずは、龐統。
劉備は、龐統を重用しますが、龐統は、益州攻略戦の中で、戦死。
次に、法正。
この法正は、漢中攻略戦で、活躍をしますが、間もなく、亡くなる。
そして、劉備は、諸葛亮と対立していた魏延を重用することに。
しかし、諸葛亮の存在は、絶大で、誰も、対抗できる人物は居なかった。
劉備にとって幸運だったのは、諸葛亮は、あくまでも主君を立て、権力を乗っ取る意思が無かったこと。
諸葛亮は、劉備の死後も、後を継いだ劉禅を支え続け、「北伐」の中で、亡くなることになる。
そして、この「名士」であった司馬懿によって、曹操から始まる「魏」は、国を奪われることになる。
優れた家臣が、主君から国を奪う、典型ですよね。
ちなみに、司馬懿は、曹操の出仕命令を再三、拒否をしていたそう。
しかし、「何としても、連れて来い」という命令を受け、司馬懿は、渋々、曹操に仕えることになったという話。
これが事実なら、曹操も浮かばれないですよね。
やはり、あまりにも優れた才能を持つ家臣は、主君にとって、非常に危険な存在だということ。