徳川幕府、第15代将軍、徳川慶喜が、大政奉還をしたことで、「幕府」は、消滅をすることになる。
では、この「幕府」が、消滅をした後、政治指導者たちは、どのような「国家」を作ろうとしたのか。
実は、「幕府は、このままでは駄目だ」と認識をしていたのは、「天保の改革」で有名な水野忠邦の後を受けて、老中首座として幕府の政治を担った阿部正弘が、すでに、感じていたところ。
そこで、阿部正弘は、それまで、譜代大名と直参旗本によって独占されていた幕府の政治に、広く、親藩大名、外様大名を参加させようという構想を持って動き出します。
つまり、日本全国、優秀な人材に、幕府の政治に参加をして欲しいという意図が、阿部正弘には、あった。
しかし、この阿部正弘の構想は、大老、井伊直弼によって打ち砕かれます。
井伊直弼は、あくまでも幕府権力の強化を目指したのでしょうが、間もなく、「桜田門外に変」で、暗殺をされてしまう。
井伊直弼を失った幕府は、朝廷と協力をし、国の政治を進めようと「公武合体」を目指すことになります。
孝明天皇の妹、和宮が、第14代将軍、徳川家茂と結婚をしたのは、その象徴。
しかし、「尊皇攘夷」勢力が、暴走を始めたことで、国内は、混乱に陥ります。
そして、文久3年(1863)、8月18日の政変、そして、翌年の「禁門の変」で、敗れたことで、尊皇攘夷勢力は、その力を失い、もはや、政治には関われなくなって行く。
そこで、登場をするのが、薩摩藩です。
この薩摩藩が、優れた政治力を持って、幕府に対抗することになる。
そして、薩摩藩は、孤立をしていた長州藩を取り込み、「第二次長州征伐」では、長州藩を支援し、幕府軍は、敗退。
更に、土佐藩もまた、薩摩藩と手を結び、幕府に対抗をして行くことになる。
この頃、「幕府」に代わる国家として、具体的に、政治家たちは、どのようなものを構想していたのか。
一つは、熊本藩士の横井小楠、そして、この横井小楠を召し抱え、懐刀としていた越前藩の松平春嶽、そして、幕臣の勝海舟、また、勝海舟の弟子とも言える坂本龍馬など、彼らは、日本全国から、広く、優秀な人材を集め、合議によって政治を進めようという、いわゆる「公儀政体」という考えを持っていた。
実は、尊皇攘夷勢力が衰退をして以降、幕末の政治の流れは、この「公儀政体」を目指して進んで行くことになります。
しかし、この流れは、上手く行かなかった。
その理由は、徳川慶喜と、幕臣の小栗忠順ら「幕権伸長派」と呼ばれる人たちが目指した「中央集権国家」の設立。
具体的には、徳川慶喜を「大統領」とし、その下に議会を置く、アメリカのような国家を想定していたよう。
当然、「公儀政体」を目指す勢力は、徳川慶喜を「大統領」とした中央集権国家に、日本がなることを阻止しなければならない。
薩摩藩、長州藩、土佐藩の指導者たちは、なりふり構わず、この「幕権伸長派」の動きを阻止するための活動を始めることになる。
それが、「討幕の密勅」の偽造であり、親幕府だった孝明天皇の暗殺です。
もっとも、孝明天皇の死は、暗殺ではなく、偶然だったのだろうという話ですが。
そして、彼ら「討幕派」は、見事、幕府、徳川家を倒す訳ですが、その後、彼らが、どのような国家を建設しようとしていたのか。
徳川幕府を倒すことに尽力した、いわゆる「維新の三傑」である西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、そして、公家では、岩倉具視、三条実美。
彼らには、幕府を倒した後、日本という「国家」を、どのようにするのか、明確なビジョンのようなものは、無かったようですね。
そして、彼らは、欧米列強が、どのような国なのかということにも、それほど、詳しい訳ではない。
岩倉具視や三条実美といった公家の人たちは、恐らく、武家が権力を握る以前の日本の政治に戻したいという漠然とした思いがあったのでしょうが、それは、到底、無理な話。
ここで、登場をするのが「佐賀藩」ということになる。
この「佐賀藩」は、幕末期、倒幕のための活動というものは、特に、何も、行っていない。
その佐賀藩が、なぜ、明治新政府で「薩長土肥」と、薩摩藩、長州藩、土佐藩と肩を並べることが出来たのか。
一つは、最新兵器「アームストロング砲」に代表をされる、佐賀藩の優れた軍事力が、戊辰戦争で活躍をしたこと。
もう一つは、「江藤新平」という人物の存在が大きい。
佐賀藩の藩士は、尊皇攘夷や討幕の活動には、基本的に参加をしなかったのですが、江藤新平は、数少ない例外で、一時、脱藩をして、その活動に参加をし、薩摩、長州などの要人たちと知り合います。
そして、戊辰戦争では、官軍に先行して江戸に入り、新政府に対して「江戸への遷都」を進言したことでも有名。
そして、江藤新平は、「明治の国家プランナー」として、新政府の国家の制度を整えることに腕を振るうことになる。
この「明治の国家プランナー」というのは、昔、NHKの歴史番組で、「江藤新平」の特集をした時の副題です。
当時、江藤新平に関心を持ち、読んだのが、この本です。
ちなみに、司馬遼太郎さんも、この江藤新平を主人公に小説を書いています。
こちらも、面白い。
他にも、色々と、本があるようなので、いつか、読んでみたいところ。
さて、江藤新平が、明治新政府で、何をしたのか。
欧米の国家制度や法律に精通した江藤新平は、「文部大輔」(文部卿は不在で、文部省の最高責任者)として、日本の教育制度の確立に関わり、「司法卿」として、日本の司法制度の確立。
この時、「三権分立」の導入を決めたのも、江藤新平の判断のよう。
更に、「民法」の制定や、警察制度の設立にも、深く、関わることになる。
まさに、近代国家としての必要な制度、法律の、様々な面に、江藤新平は、大きな影響を与えることになる。
なぜ、外遊経験の無い江藤新平が、これほど、欧米の国家の制度や法律に精通していたのか。
それは、佐賀藩という藩の特殊な環境にあったのですが、それは、また、別の話。
そして、いわゆる「征韓論」を巡る問題で、西郷隆盛を支持した江藤新平は「明治六年の政変」で、西郷隆盛、板垣退助らと共に、明治政府を離れ、下野することに。
そして、「佐賀の乱」が起こる。
この「佐賀の乱」の首謀者の一人となった江藤新平は、政府軍に敗れ、逃亡をするが、逮捕され、処刑される。
自分が整備した警察制度によって逮捕され、自分が設立した司法制度によって裁かれ、処刑をされる。
何だか、皮肉です。
さて、少し、余談。
明治新政府の中で、特に、長州藩出身の人たちは、「公」と「私」の区別が曖昧だったようですね。
それは、幕末期から、長州藩の人たちは、藩の「公金」を、かなり自由に使えたようで、明治になっても、政府のお金や物、つまり「公的なお金、物」を、まるで、「自分のお金、物」のような感覚を持っていたよう。
そして、司法卿である江藤新平は、この「公私」の区別のない長州藩出身の偉い人たちの行動を厳しく、糾弾、追及をして行ったそう。
そのため、「明治六年の政変」は、「征韓論」の話ではなく、実は、この「江藤新平の政府からの追い落とし」が、本来の目的だったのではないかという説もあるようです。