戦国武将、長宗我部元親と、その後を継いだ息子の長宗我部盛親。

個人的に、色々と興味深い人物です。

 

司馬遼太郎の小説に、長宗我部元親を主人公にした「夏草の賦」、そして、長宗我部盛親を主人公にした「戦雲の夢」というものがあります。

 

 

 

どちらも、とても面白いですが、あくまでも小説なので、史実とは、違うところも、多々、あります。

個人的には、歴史上の人物のイメージを掴むには、小説も良いですが、やはり、史実ではないことを「事実だ」と思い込む危険性があるので、注意が必要と思うところ。

もっとも、史実に興味が無い人にとっては、それで十分なのでしょうが。

 

さて、「史実」としての長宗我部元親、盛親を知るには、やはり、この本が適当かと思います。

 

 

また、手軽に、長宗我部元親に関して知りたいと思えば、この本。

個人的に、大好きな「人をあるく」シリーズです。

 

 

さて、この長宗我部元親も、「逸話」の多い人物ですよね。

この「逸話」が、「史実」のように語られる場合も多いですが、個人的には、この戦国武将の「逸話」は、ほぼ、全て、江戸時代に創作されたものだろうと思っています。

 

子供の頃に「姫和子」と呼ばれた、おとなしい人物だったというのは、本当なのか。

初陣が22歳で、その時に、大活躍をして「土佐の出来人」と言われたのは、事実なのか。

 

どうも、疑わしい。

 

さて、この長宗我部氏は、土佐国の、一つの国衆に過ぎなかったのですが、元親の代に、一躍、四国全土を制覇することになる。

元親が、いかに、優れた人物だったかが、よく分かりますが、織田信長は、この元親のことを「無鳥島の蝙蝠」だと言ったという逸話ばあります。

つまり、「四国」という「鳥」の居ない島での「コウモリ」のようなものと、元親を卑下した表現ですが、この逸話もまた、恐らく、江戸時代に創作をされたものでしょう。

 

さて、近年、新たな史料の発見により、長宗我部元親についても、新たな史実が解明されて来ている。

一つは、元親は、織田信長による四国征伐の前に、条件を受け入れ、降伏をするつもりだったということ。

しかし、元親が降伏を示した書状は、「本能寺の変」には間に合わなかったのではないかという話のよう。

この「本能寺の変」の勃発により、織田軍による四国征伐は中止になる。

また、豊臣秀吉による四国征伐の時も、事前に、元親は降伏を申し入れていたようですね。

しかし、強硬に、征伐軍が派遣をされてしまった。

この「四国征伐」に関する逸話としては、強硬に、豊臣軍との戦闘を主張する元親に対して、家臣たちが、豊臣軍の装備の立派なことなどを話し、元親に降伏を強く勧めたというものがありますが、元親が、事前に、降伏の意思を示していたのが「史実」なら、この「逸話」は、後世の「創作」ということになり「事実」ではない。

 

さて、豊臣秀吉に降伏をした長宗我部元親ですが、秀吉の命令で、島津征伐の先陣として、九州に渡ることになる。

その時、「戸次川の戦い」で、島津軍に大敗を喫し、嫡男である信親を失うことに。

 

この「戸次川の戦い」以降、元親は、存在感を失うことになる。

言い換えれば、四国を制覇した戦国大名としての「覇気」を失った感じ。

これは、個人的に、長年の疑問だったのですが、この本に、元親は、嫡男の信親を失い、うつ病になってしまったのではないかと、書かれていました。

 

この

 

この本は、長宗我部元親の弟、親益の子孫で、現在の長宗我部家の当主である長宗我部友親さんが書かれたもの。

この本は「長宗我部家」の初代から、長い歴史が書かれています。

長宗我部親益は、元親よりも先に亡くなり、その子孫は、土佐藩山内家に仕えて、続いたそうです。

江戸時代は「長宗我部」を名乗ることは出来ず「島」という名字を名乗っていたそう。

 

嫡男、信親を失った元親は、四国を制覇した「名将」としての影を潜め、混乱を始めたような印象です。

信親、亡き後、豊臣政権は、次男の親和を後継者と認めると元親に伝えたようですね。

しかし、元親は、四男の盛親を後継者と決める。

これは、家臣たちも猛反対をしたようですが、元親は、強硬に、盛親を後継者に決めてしまった。

どうも、盛親は、粗暴な性格だったようで、家臣たちの信望も、あまり無かったよう。

 

なぜ、元親は、盛親にこだわったのか。

明確な理由は分かりませんが、信親の娘を、盛親の正室にし、信親の血統を、長宗我部家の当主にしたかったのではないかということのよう。

 

豊臣秀吉の死後、諸大名は、徳川家康を中心に、次期、権力者の座を巡って、激しく活動をする訳ですが、元親は、ここでも、存在感が無い。

そして、「関ケ原の戦い」の、少し前に、亡くなることに。

この時も、特に、何も、今後の対策を練った様子がなく、遺言も残していないよう。

一体、長宗我部元親は、何を考えていたのか。

 

さて、長宗我部家当主になった盛親ですが、間もなく「関ケ原の戦い」が勃発。

通説では、当初は東軍に味方する予定だったのですが、徳川家康への使者が関所を抜けられず、仕方なく、西軍についたと言われていますが、史実としては、当初から、西軍だったのだろうという話。

しかし、長宗我部軍は、南宮山で、毛利軍の中立に巻き込まれ、戦闘に参加をすることなく、敗走することに。

 

土佐に戻った盛親は、重臣の進言を受け、兄の津野親忠を殺害。

これが、徳川家康の怒りを買い、土佐国が没収されたと言われていますが、この「逸話」もまた、「史実」ではない。

盛親が、兄、親忠を殺害したのは事実ですが、当初、家康は、長宗我部盛親は、減封の上、他の土地に転封させる予定だったそうです。

しかし、その話を受けるため、盛親が土佐国を出て、伏見に向かっている途中で、土佐では「浦戸一揆」が勃発。

この「浦戸一揆」が、長宗我部家取り潰しの直接の原因になったそうです。

 

大名ではなくなった盛親は、京都で、監視をされながら、牢人生活をすることになる。

寺子屋の師匠などをしていたというのも、有名な話。

家臣たちの他の大名への仕官の斡旋なども行っていたようですね。

 

そして、「大坂の陣」が起こる。

 

長宗我部盛親は、大坂城に入城。

先に挙げた長宗我部友親さんの先祖もまた、大坂に入り、盛親と共に戦ったそうですね。

大坂城に入城をした牢人たちの中では、かつて土佐国の支配者だったということは、かなり、大きな注目を集めたのではないですかね。

 

盛親は、「大坂冬の陣」では、大坂城南の正面に陣取ることに。

その横には、真田信繁の「真田丸」があり、盛親は、信繁をサポートするような立場にあったのでしょう。

 

そして、「大坂夏の陣」では、木村重成と共に、大坂城の西方に出陣。

「八尾、若江の戦い」で、木村重成は、井伊直孝の軍と激突し、討ち死に。

長宗我部盛親は、藤堂高虎の軍を、壊滅寸前まで追い詰めますが、木村重成を討ち取った井伊直孝軍の参戦で、劣勢となり、敗走する。

この時、藤堂高虎の軍には、元長宗我部家の家臣たちが、多く仕官をしていた。

元長宗我部家の重臣、桑名弥治兵衛は、かつての主君、盛親の前で戦死。

これが「戦雲の夢」の物語になる。

 

大坂落城の時、盛親は、城を脱出。

潜伏しているところを捉えられ、処刑される。

その時、「なぜ、死ななかった」と問われ、盛親は、「家康を倒すためだ」と答えたとか。

この「逸話」は、事実なのかどうか。