さて、先日、庭瀬城を見に行ったのですが、この庭瀬城の「城門」が、福寿山立成寺に移築され、現存していると教えてもらったので、見に行って来ました。

 

これが、福寿山立成寺です。

南から見上げたところ。

 

この門が、庭瀬城から移築をされた「城門」ということになるのでしょう。

左側に、説明版があります。

 

説明版、拡大。

この庭瀬城の城門は、明治に入り、廃藩置県があった時に、移築をされたということのよう。

 

実は、明治に入った時、江戸時代まで、藩主が住んでいた「城」は、もはや「価値の無いもの」と考えられ、破壊をされたり、二束三文で売り払われたりするケースが、多くあったようです。

そんな中で、今、現存をしているものは、運が良かったと言えるのでしょう。

 

さて、「福寿山立成寺」について。

 

旧本山は、庭瀬の不変院だということ。

慶応年間の1596年頃に、恵性院日通により、備中国辛川に開創。

岡山藩主、池田光政の時代に、日蓮宗「不受不施派」の弾圧(寛政の法難)を逃れるため、今の場所に移転をしたそうです。

 

この日蓮宗の「不受不施派」は、当時、かなり異色の宗派だったようで、幕府から「不受不施派寺請禁止令」が出され、弾圧の対象となったそうですね。

この「不受不施派」とは、「法華経の信徒で無い者から布施を受けない、そして、法華経の信徒でない者の供養はしない」という日蓮の教えを厳守しようという宗派。

この「不受不施派」は、天和2年(1682)、岡山での出来事をきっかけに、二つの教団に分裂をしたということ。

その後も、紆余曲折があったようで、やはり、「宗教」の問題というものは、複雑で、ややこしい。

 

江戸時代、キリスト教が禁教となり、弾圧を受けたことは有名ですが、公的に禁止をされた宗教は、キリスト教だけではない。

この日蓮宗「不受不施派」も、その中の一つ。

また、浄土真宗も、藩によっては、信仰を禁止されていたそうですね。

そのような藩の領内では、信徒は地下に潜伏し、念仏を唱えたよう。

これは「隠し念仏」「隠れ念仏」と、言われたようです。

 

もっとも、キリスト教など、宣教師の教えを受けられない状況で、長年の間に、その信仰は大きく変わり、明治に入った頃には、本来の「キリスト教」とは、随分と信仰の内容が変わっていたよう。

また、浄土真宗が禁止をされていた薩摩藩で、潜伏をしていた浄土真宗の門徒たちも、長い歴史の中で、信仰内容は、かなり、変化をして行ったようです。

 

さて、この福寿山立成寺の少し西の道の辻に、このようなものがありました。

 

南から見たところ。

 

北から見たところ。

「南無妙法蓮華経」と、お題目が書かれています。

 

その辻の北側にも、いくつもの石が置かれています。

真ん中の大きな石にも「南無妙法蓮華経」の文字がありました。

「明治三十年」という年号もありました。

 

これだけの石が、最初から、この場所に揃えられていたとも思えないので、いくつかの場所に置かれていた石が、この場所に集められたのかとも思うところです。

 

現在の福寿山立成寺は、不受不施派という訳ではないのですかね。

今は、日本全国、どこのお寺も檀家が減少し、経営が厳しいという話を、よく聞きます。

「不受不施」を徹底すると、経営は、かなり、難しいのではないでしょうかね。