岡山市の東部、「沼」と呼ばれる地域にある「亀山城」に行ってみました。

この「亀山城」は、天文年間に中山勝政によって築城されたそう。

この「中山勝政」は、以前は「中山信正」と言われていましたが、近年、発見された書状から「信正」ではなく「勝政」が正しいということが分かったそう。

 

永禄2年(1559)、中山勝政は、宇喜多直家によって滅ぼされ、直家は、砥石城から、この亀山城に拠点を移し、岡山城に移るまでの、約15年の間、ここから、備前国の制圧を目指すことになる。

ちなみに、「備前軍記」などに書かれた宇喜多直家の生涯は、後世に創られたものが多く含まれているようで、この中山勝政を殺害する経緯もまた、今では、直家の謀略によるものではなく、浦上宗景の備前国制圧の中の一環として滅ぼされたと考えるのが正しいようです。

 

ちなみに、宇喜多直家もまた、浦上宗景の家臣ではなく、今では、軍事的に従属する「国衆」の一人だったと考えられているよう。

つまり、宇喜多直家の台頭は、主君を倒したという訳ではなく、国衆が、自らの力で成長をした結果、と、言うことになる。

 

亀山城を南西側から見たところ。

中央にあるのは浮田小学校で、その右手の小山が亀山城の「本丸」で、左手の小山が「西の丸」です。

この「本丸」と「西の丸」は、それぞれ、独立をした丘陵になっていました。

 

本丸の小山を、南方から見る。

 

このような標識がありました。

 

登り口の正面には、亀山城址の説明看板と、宇喜多氏の旗が。

この「宇喜多氏の旗」は、城址のあちらこちらに立てられていました。

 

ここから「本丸跡」に登ります。

 

 

鳥居をくぐると、このような石段が続きます。

 

石段を、しばらく登ると、このような平場に出ます。

ここが「本丸跡」のよう。

 

亀山城についての歴史が書かれた看板が。

 

亀山城の「縄張り」が記された図がありました。

本丸のある小山と、西の丸の小山とが、分離をしている様子が、この図からも分かります。

 

一段、高い平場に、このような建物が。

 

 

さて、本丸跡の標識と、亀山城の説明版です。

この説明版は、比較的、新しいもののよう。

 

そして、その隣には、石碑も。

それぞれ、「直家飛躍の地」「亀山城跡」「秀家生誕の地」と書かれているよう。

しかし、嫡男の秀家の誕生は、直家が居城を岡山城に移した後の可能性が高いようです。

 

ネットで調べてみると、「亀山城」の遺構というものは、ほぼ、残されていないようです。

残念。

 

本丸のある小山の方面から、西の丸がある小山を見る。

手前は、浮田小学校です。

「浮田」の名前は、やはり、「宇喜多」から来ているのでしょう。

 

 

ちなみに、隣の溝に、このような「水車」がありました。

これは、田んぼに水路の水を組み上げるものなのでしょう。

 

ちなみに、この水路に隣接するこの小さな田んぼは、浮田小学校の児童が、学習のために稲を育てているようで、その旨の看板がありました。

水車もまた、児童たちが設置をしたものなのでしょう。

 

さて、西の丸のある小山の裏手に回ろうと歩くと、川に、このような「鯉のぼり」が設置されていました。

近くの子供たちが作ったのでしょうかね。

ちなみに、西の丸のある小山は、浮田小学校の敷地内ということになるようで、勝手に入ることは出来ないよう。

 

小山の裏手には、このような石柱とお堂が。

ちなみに、石柱には「南無阿弥陀仏」と書かれていました。

 

お堂の中には、お地蔵さんが集められていました。

右手にあるお地蔵さんは、古いもののよう。

小さなお堂の中には、まだ、真新しい感じの、奇麗に色の塗られた、小さなお坊さんの像が置かれていたようです。

 

亀山城は、想像以上に、規模の小さい城でした。

もし、大軍に攻められたら、これで、持ちこたえることが出来るのかと、不安に思うところですが、縄張りや、土塁、堀が残っていれば、城の堅固さも、想像がつくのかも。

また、亀山城の南や、西には、もっと標高の高い山もあり、そこに敵軍に布陣をされると、どうやって防ぐのだろうかとも思えるところ。

 

しかし、この亀山城に、戦国大名、宇喜多直家が住んでいたのかと思うと、感慨深い感じもあります。

宇喜多直家が、備前国への侵出を狙う備中国の戦国武将、三村元親を破った「明善寺合戦」については、実際に、そのような合戦があったのかどうか、議論があるところのようですが、その時、宇喜多直家は、この亀山城から出陣をしたんですよね。

この「明善寺合戦」は、宇喜多直家が築いた「明善寺城」の攻防がきっかけとなって起こったもののよう。

そのうち「明善寺城」跡にも、行ってみたいところです。