宇野地区、宇野中学校、玉野高校の近くに「北向地蔵」を呼ばれるお地蔵さんがあります。
大きなお地蔵さんが一体に、小さなお地蔵さんが三体、置かれているようですね。
明治三十二年七月吉日と書かれています。
今も、地域の人の信仰が厚いようで、お花がたくさん、供えられていますね。
さて、このお地蔵さんの由来が、ネットに書かれています。
四国巡礼を終えて故郷に戻る旅の托鉢僧が、冬の暖を取ろうとして広潟二十六番塩浜で、足を滑られせて、亡くなってしまったということ。
地元の人たちは、その托鉢僧の冥福を祈るため、浜の土手にお地蔵さんを祭り、「西広潟二六のお地蔵さん」と呼ばれたそう。
その後、浜は埋め立てられ、お地蔵さんは、今の場所に移され「北向地蔵」と呼ばれるようになったとか。
この「北向地蔵」と呼ばれるお地蔵さんは、他にも、広く、日本各地に存在するようですね。
恐らく、ただ、単に、お地蔵さんが「北向き」に置かれていたために、地元で、そう呼ばれるようになったのでしょう。
さて、この辺りは「広潟」という地名で、文字から解釈をすると、「広い干潟」があったために、そう呼ばれるようになったのでしょう。
そして「塩浜」とは「塩田」のことなのではないでしょうかね。
かつて、この児島半島の東部の砂浜、干潟には、広く「塩田」が存在していた。
この「広潟」も、その中の一つだったのでしょう。
さて、お地蔵さんの隣に、このようなゴミ箱が置かれています。
僕が子供の頃は、このようなゴミ箱が、町内ごとに設置をされていて、燃えないゴミは、いつでも、この中に捨てて良かったということだったと記憶しています。
それでも、ゴミ箱が一杯にならなかったのは、それだけ、当時は、ゴミが少なかったということなのでしょう。
さて、「北向地蔵」の近く。
正面に延びる道は、自転車、歩行者の専用道路で、かつて「備南電鉄」という鉄道が走っていた道。
道の右側、高くなっている場所は、駅のホームだったよう。
玉野高校に通っていた頃は、いつも、この道を、自転車で走って登下校をしていました。
こちらは、元「備南電鉄」の道を、反対側に見たところ。
右手にあるのは、宇野中学校です。
この先に、宇野駅があります。
備南電鉄は、宇野駅から奥玉地区を結んでいました。
僕が生まれる前には、もう、廃線になっていたのですが、玉地区に、一部、線路が残っていた記憶があります。