倉敷市藤戸にある「藤戸寺」に行ってみました。

この「藤戸」は、源平合戦の時に、「藤戸の戦い」があった場所。

 

右が「源平合戦八百年記念碑」で、左が「藤戸の戦い」の経緯が書かれている石板。

倉敷川に橋がかかる、信号のある場所にあります。

 

「藤戸の戦い」が行われたのは、寿永3年(1185)12月7日。

当時、この藤戸は海で、この海を挟んで、平家軍の平行盛が、備前児島側に砦を築き、それを攻撃するために派遣されたのが、源氏軍、源範頼配下の佐々木盛綱。

佐々木盛綱は、本土側に陣を置き、平行盛と対峙することに。

 

佐々木盛綱軍には、船が無く、藤戸の海峡を渡ることが出来なかった。

そこで、現地の一人の漁夫に浅瀬の場所を聞き、海峡を突破。

佐々木盛綱は、平行盛軍を破り、「藤戸の戦い」に勝利をする。

 

さて、この合戦の現地にあったのが「藤戸寺」です。

 

この「藤戸寺」は、奈良時代、天平年間に行基によって建立されたという言い伝えがあるそうですが、恐らく、史実という訳ではないのだろうと個人的には、思うことろ。

有名な高僧だった「行基」にあやかるというのは、他の寺院では、多く行われていたのだろうと想像します。

そして、この「藤戸の戦い」で、お寺は荒廃したそうで、後に、この地域を領地とした佐々木盛綱が、藤戸寺を復興したそう。

 

南側の入口、石段の隣には、「藤戸寺」と名前の入った石柱が。

「慶応四年」の年号が掘られていましたが、これは、あの「戊辰戦争」があった年で、徳川幕府が倒れ、明治新政府が出来た年ということになる。

 

石段を上がると、平地があり、そこから、更に、上に本殿があります。

 

本殿、正面から。

かつて、海だった近くの場所から千手観音像が浮かび上がり、それを、ここに安置したのが「藤戸寺」の始まりだそうです。

 

本殿から左を見る。

 

本殿、右側を、奥に進む。

 

そこには、このような塔があります。

この石塔は「石造藤戸五十塔婆」というそうで、寛元元年(1243)の年号があり、作られたのは、鎌倉時代。

 

手前に設置されている説明版。

 

本殿、右にある鐘撞堂。

 

さて、この「藤戸寺」の近くに「藤戸饅頭」のお店があります。

 

この「藤戸饅頭」は、佐々木盛綱が、この藤戸寺で、合戦戦死者の供養をした時に配られたのが起源とか。

ウィキペディアによると、この「藤戸饅頭」が現在の形になったのは万延元年(1860)頃だそう。

ちなみに、このお店の建物は、映画「三丁目の夕日」の撮影でも使われたそうです。

 

さて、このお店の先に、「行盛橋」という名前の橋があります。

 

 

 

橋には、平行盛の騎馬武者像が。

 

そして、この橋を渡ると、右手に「経ヶ島」があります。

この「経ヶ島」とは、佐々木盛綱が、浅瀬を教えたもらった漁夫を、秘密の漏洩を恐れて殺害をしたのですが、その供養のために、写経をして、その漁夫の供養のために収めた島だそうです。

 

 

 

この「経ヶ島」は、かつて、「藤戸寺」の境内だったそう。

「島」の名の通り、当時は、この辺りは、海だった。

 

ちなみに、「経ヶ島」近くにあった常夜燈とお地蔵さん。

常夜燈には「金毘羅権現」の文字がありました。

 

常夜燈の近くから、行盛橋を見る。

 

この「藤戸の戦い」に関する史跡は、主変地域に、他にも、色々とあります。

そのうち、見に行きたいところです。