今日は、良い天気で、暖かいので、久しぶりに百閒川の河口付近に出かけてみました。
ここに来るのは、恐らく、20年以上ぶり。
産業道路から百間川河口に向かう道は、奇麗に整備をされ、車で走り易くなっていました。
昔は、水門が何か所もあり、道が、その水門に沿って、くねくねとしていたのですが、真っすぐに整備されている。
百閒川の西岸、土手の上から、北を見る。
中央、やや、右寄りにあるのが「芥子山」だと思っていたのですが、地図で確認をすると「雨乞山」となっている。
子供の頃から、ずっと「芥子山」と呼んでいたのですが。
土手の上から、南の河口方面。
河口には、大きな水門が設置されています。
さて、この、川岸に泊められている船ですが、どうも、今、大きな問題になっている「違法係留」のようで、近くの看板には「持ち主を知っている人が居れば、知らせてください」と書かれた紙が張られていました。
しかし、その看板は、相当に古いもののようで、結局、効果は無いのでしょう。
さて、この「百間川」は、江戸時代に、岡山城下を流れる「旭川」の増水、決壊を防ぐために、人工的に作られた川のよう。
そして、この百間川の周辺地域は、江戸時代に「沖新田」と呼ばれ、干拓、整備がされた場所。
児島湾に注ぐ旭川の河口付近は「三蟠」という地域で、東の吉井川の河口付近は「九蟠」と呼ばれていますが、これは、新田開発の順番から名付けられたよう。
この百間川の西岸を北に向かうと、途中に「沖田神社」という神社があります。
この「沖田神社」は、元々、「きた」という女性を祭ったものなのではないかという説がありますが、史実かどうかは、定かではないということ。
この「きた」は、江戸時代に、この「沖新田」の堤防工事が難航した時に、人柱となったと伝えられているそう。
かつては、百間川の河口に、この伝説の書かれた看板があったはずですが、今のように道が整備をされた時にでも撤去をされたのか、今日は、見当たりませんでした。