愛媛県南宇和郡に、太平洋戦争末期に使われた日本海軍の戦闘機「紫電改」が展示されているのを知っているでしょうか。
「紫電改展示館」に展示をされている機体は、昭和53年に、近くの湾に原型を留めたまま、沈んでいるものが発見され、翌年に、引き上げられたもの。
この海底に沈んでいた戦闘機「紫電改」。
昭和20年7月24日、豊後水道上空で行われた空中戦で未帰還になった6機の紫電改のうちの一機だと考えられているよう。
この時、アメリカ軍の艦載機の大群を迎え撃ったのは、21機の紫電改。
この21機の紫電改を率いたのが、343空・戦闘701の隊長、鴛淵孝大尉です。
この日の空中戦で未帰還になった6機の中に、この鴛淵大尉も含まれていた。
そして、「空の宮本武蔵」と言われたエースパイロットの武藤金義少尉もまた、その中の一人。
この6機の紫電改に搭乗していた6人のパイロットの人生と、未帰還になった6機の紫電改の最期を、様々な証言、記録から検証したのが、碇義朗「紫電改の六機・若き撃墜王と列機の生涯」です。
鴛淵孝大尉は、この時、25歳。
武藤金義少尉は、28歳。
鴛淵大尉は、まだ、未婚でしたが、武藤少尉には、妻も子供も居た。
そして、他の4機の搭乗員たちは、更に、若い。
最前線での戦闘で、20歳前後の、若い人たちが死んで行く。
国を守るためとはいえ、非常に、悲しい話。
戦死、行方不明になった人たちには、全て、それぞれの歩んだ人生がある。
この海底から引き揚げられた紫電改には、遺品は残ってなく、誰が搭乗していたのかは不明ということ。
ウィキペディアによれば、この機体は、戦闘301のものと思われるそうで、それならば、武藤少尉の搭乗機である可能性が高いそう。
この機体の水没の状況には、目撃者がいたそうで、何らかの理由で戦闘を離脱した後、海面に不時着水し、そのまま、搭乗員と共に、海中に沈んだそう。
今、現在も、ウクライナで、スーダンで、多くの若い人たちが、戦闘で命を落としている。
何で、人間は、このようなことばかりを繰り返すのでしょう。