今、多くの人が「高野聖」と聞いて、最初に思い浮かべるのは、泉鏡花の小説「高野聖」ではないでしょうか。

 

泉鏡花の代表作であり、幻想文学の名作。

一人の旅の僧の、不思議な体験を描いた物語ですが、文語調の文章で、馴染みが無い分、素直に、読んで、理解をするのは難しい。

 

 

さて、そもそも、「高野聖」とは、何なのか。

知っている人は、少ないのではないでしょうか。

 

そもそも、「聖」とは、何か。

「聖」とは、諸国を歩き、仏教、その他の教えを広める活動をしていた僧のこと。

有名なところでは、奈良時代の行基、平安時代の空也、鎌倉時代の一遍。

彼ら「聖」の中には、寺や神社に所属し、その寺や神社のための「勧進」を求める者たちも居た。

それが「勧進聖」で、高野山に属し、高野山への勧進を求めた人たちが「高野聖」ということになる。

 

この「高野聖」の歴史について、詳しいのが、この本。

 

 

この本の著者は、五來重さん。

五來さんは、民俗学者で、民俗学の立場から、日本の宗教の成り立ちを記した本が多く、読んでいると、非常に、面白い。

 

この本によると、空海が高野山に金剛峯寺を開いて以降、ずっと、高野山が栄えていた訳ではなく、平安時代後期には、かなり、廃れていたようですね。

そして、大火が、それに追い打ちをかけ、高野山の建物の多くが、焼失をしてしまったよう。

その高野山の立て直しのために、聖たちが、諸国を、勧進をして歩いたのが「高野聖」の始まりのよう。

 

しかし、この高野聖は、主に「念仏」を進める「念仏聖」だったよう。

つまり、高野聖たちは、真言宗を広める訳ではなく、「念仏」と「浄土思想」を広めて歩いたよう。

そして、高野山は「浄土教」の聖地として、世間に認知されるようになる。

高野聖たちは、勧進と共に、諸国の人たちの遺骨を、高野山に運び、葬る役割も果たしていたそうです。

 

当初、この「高野聖」=「念仏聖」は、真言宗系、南都系の「念仏」を広めていたようですが、室町時代には、多くの「高野聖」が、一遍に始まる「時宗」に吸収されたそう。

そして、江戸時代の初め、徳川幕府の命令で、高野山に居た時宗の高野聖たちは、強制的に真言宗に所属をさせられ、解体されたそうです。

 

日本の仏教が、本来のお釈迦様の始めた仏教、そして、他国の仏教ともかけ離れた様相で広まっているのはよく知られた話。

なぜ、日本の仏教が、そのような変化をしたのか。

五來重さんの、民俗学から読み解く日本の仏教は、非常に、面白く、納得の出来るところです。