常山の麓に「友林堂」という建物があります。

宇喜多家の重臣、戸川秀安の位牌を祀ったお堂だそうです。

 

 

麓の道路沿いに、このような石碑があります。

「友林堂」は、左の坂道を登ったところに。

 

 

その坂道側から見たところ。

 

 

坂道の途中に、お地蔵さんと、石塔が、二つ。

 

 

坂道を、少し登ると、「友林堂」に到着。

 

 

「友林堂」の右手にある説明の看板。

 

 

「友林堂」の左手にある石段。

 

 

石段の途中から、「友林堂」を見下ろす。

 

石段を登ると、三つの石塔が。

 

 

まず、石段を登って、右手にある石塔、二つ。

 

 

 

そして、その奥に、立派な石塔が。

 

 

三つの石塔の説明の看板。

一番奥の立派な石塔は、戸川秀安のお墓。

手前の二つは、その家臣、日賢、日教のお墓だそうです。

 

 

岡山方面の景色を見る。

 

 

こちらは、玉野方面。

 

さて、戸川秀安という人物。

 

宇喜多直家の重臣で、家老の中でも筆頭格だったようです。

備前児島、常山城が、毛利氏から宇喜多氏に引き渡された時、この戸川秀安が、城主として常山城に入ったそう。

 

宇喜多直家の死後に隠居をし、息子の戸川達安に家督を譲る。

隠居後は、常山の麓、今の「友林堂」の辺りで、余生を過ごし、その時に「友林」と名乗ったそうです。

戸川秀安が亡くなったのは、慶長2年(1597)だそうです。

 

さて、説明板から、「友林堂」についての解説。

 

「友林堂」は、常山城主、戸川秀安の位牌を安置する霊廟として、文化2年(1805)に戸川氏の子孫によって建てられたということ。

これまでに、嘉永5年(1852)から、平成12年まで、六回に渡って、改修が行われているそうです。

 

さて、今日、この「友林堂」で、写真を撮っていると、お隣に住んでいらっしゃる、この「友林堂」を管理している方が、出て来て、色々と戸川氏、そして、「友林堂」について説明をしてくれ、「友林堂」の中も、鍵を開けて見せてくれました。

有難いことで、改めて、ここで、お礼を。

ちなみに、戸川秀安が、隠居後に名乗った「友林」とは、「友と共に、林の中にある」といった意味ではないかと、お話をしてくれました。

主君の宇喜多直家と共に、戦い続けた生涯だったのでしょうが、この常山の麓で、静かな隠居生活に満足をしていたのかも。

 

戦国大名として登場した宇喜多直家、そして、豊臣大名として、要職を務めた宇喜多秀家ですが、関ケ原の戦いで、敗れ、宇喜多秀家は、八丈島に流され、宇喜多家は滅亡することになる。

しかし、関ケ原の戦いの直前に起こった「宇喜多騒動」で、戸川氏を始め、重臣たちが、宇喜多家を去ってしまった訳ですが、今日、管理者の方が聞かせてくれたお話の中にもありましたが、そのために、戸川氏は、江戸時代も続き、この「友林堂」が建てられることになったんですよね。

何だか、複雑な歴史のめぐり合わせです。