玉野市の玉にある玉比咩神社。

ネットで調べてみると、平安時代の記録にもある、歴史の古い神社だそうですね。

 

本殿、正面から。

 

神社の由緒が、書かれているようです。

 

 

玉比咩神社には、特徴的な大きな岩があり、「立石」または「玉石」と言うそう。

この「玉石」の「玉」が、地名の「玉」の由来のよう。

これは、本殿の東側にある、「立石」を祭る「立石神社」のようです。

かつて、日本には、特徴的な、大きな石には神様が宿るという考えがあったようで、そういう岩のことを「磐座」(いわくら)と呼ぶそう。

この玉比咩神社も、元々は、この「立石」を御神体にして、信仰が始まったということのようです。

 

 

「立石」の由緒が、書かれています。

何でも、万葉集にも、この「立石」を読んだ歌があるとか。

 

ちなにみ、かつては、この「立石」のある場所は、海だったということ。

つまり、「立石」は、海の中に立っていた訳で、当然、その時には、今の玉比咩神社の社殿などは、無かったということになる。

 

 

ちなみに、今の玉比咩神社は、臥龍山の北東部の麓にあり、本殿と、立石神社の近くに「臥竜稲荷神社奥宮」という場所が、山の中腹にあるようで、麓から、鳥居や小さな社殿のようなものも見えます。

ここが、その登り口。

恐らく、そもそもは、ここが、最初の神社だったのではないかと、ネットに書いてありました。

 

本殿の正面から見て、右手には「護国神社」もありました。

そして、玉比咩神社に入る北側の道路に面したところにある鳥居と狛犬の近くに「一億一心」と書かれた大きな石碑があります。

先の戦争で、戦勝祈願にために建てられたものでしょう。

裏面には「昭和十五年」という年号が、文章の中に刻まれていたような。

 

以前、倉敷ケーブルテレビの「あっぱれ」という番組で、玉小学校の学区を、江西さん、朝田さんが回っている時に、出会った老齢の男の人が、戦争中に、当時、存在して、今は廃校になっている奥玉小学校から、児童たちが、戦勝祈願に玉比咩神社に行ったことがあって、その時、奥玉小学校の児童の数は、先頭が玉比咩神社に到着しても、後ろは、まだ、小学校の中にあったほど多かったと話をしていました。

今では、玉野市も、少子化が著しく進行し、小学校、中学校の再編などが見当されているように、新聞の記事で読みました。

 

寂しい限りです。