映画監督の若松孝二さんです (在京球団の元監督ではありませんw 選手時代の若松は好きだったけれど。) 

創作のエネルギーは「怒り」と言っていたな... こういうことを公言するオヤジがいなくなるのはさびしいですね まあたぶん周りの人は苦労させられますが(ちらりと横を見る) 草食化がすすんだ、というより 受け止める側の度量がなくなってきたというのが先でしょうね 女の人も自己実現に忙しくなっちゃったから、こういう生涯やんちゃ坊主みたいな男子を引き受ける余裕がない。(アタシも最近ないわ...ww ちらり まあ自己実現なんてとうにどうでもよくなっちゃったけど 喰ってくのに忙しくてww)

「キャタピラー」公開からまだ2年、まだまだ撮れたでしょうね もったいないし残念です

若松孝二監督が死去 YOMIURI ONLINE


なんかもう 先日の大滝秀治さんの訃報といい 年上のオヤジにしか興味がなくw ジャニオタ韓流狂いの周囲とことごとく話が合わない私としては 生きる気力が削がれる思いですよホント
と思うこともあるけど 大体同じような繰り言ばかりという自覚もあるし テーマを決めて書き始めるわけではないので書いてるうちになんだっけ、となることが多い。まあ更新が続くときはあんまり精神状態が良くないということなので その時ある程度気持ちがおさまるまで書いたら 支離滅裂なままにしている

他のブロガーさんのように 世の中で起こるあれやこれやについても書きたいのだけれど 結局人のことをどうこう言えるのか自分、というところに帰ってきてしまうので 自分のことばかり書いている(我ながらウザいねww)

人のことは憶測以上にはわからない。自分の中で想像しているうちは勝手だが、こういうところに書くのはまたちょっと別の勢いなり勇気なりがいる。もちろん本人の主観より傍目の客観のほうがより的を射ているということは往々にしてあるけれど。社会で起きていることだって結局は人が、どこかの誰かが何かを考えて行動した結果が結果を呼んだ結果、なのだ。本当のところは誰にもわからなくて正解もないというところで 自分はこう解釈する、というのを披露して だから何?と自分でツッコミを入れての繰り返し …だんだん空しくなる。書いたそばから突っ込みどころなんていくらでも出てくるのだし

為末大さんの連ツイみたいに、あれもオチがないけれど、あれくらいに洗練した書き方ができるとまだよいのだけれど。あの思考実験みたいなのは面白くて 自分の考えに近いところもあり フォローして読んでいる。体育会系ポジティブバカにはないクールさや ひねくれすぎてないひねくれ方がなかなかいい。真摯な思いから発信された言葉や思考は、ボジかネガかなんて関係なく 人の心をとらえる

…あ、そうか だからポジポジ唱えてポジティブな結果を引き寄せましょう♪、みたいなのが嫌いなんだ私ww なんか真摯な感じがしないから。なにかのテーマに真剣に向き合ったら、トーンがどっちかなんて本質的なことじゃないし、それはその時その時に自ずと導かれるもののはず。なのに最初から決めてしまってそこに向かって落とし込んでいくなんて なんか順序逆というか作為や欺瞞を感じるんだなぁ …あ、そうそう 警察の誘導尋問に似ているかもw

母が交通事故にあって、被害者で病床にあるにもかかわらず やってきた取調官はすでにストーリーを勝手に作っていて、そこから反れるようなことを母が口にしようものなら「こうだったんじゃないのか」「その時こう考えたんじゃないのか」「ああなったらこうするはずなのに なぜそれをしなかったのか」…もうテレビドラマ以上の、びっくりするような決めつけ方の責め口調に、本当にあぜんとした。繰り返すけど、母は老人で被害者で大けがで入院中ですよ? どうも本人たちは自白強要とは思ってないんじゃないかというところに しみついた体質というか問題の根の深さを感じる…そう、「本人たちはおかしいと思っていない」のだ。これって厄介だよね

誤認逮捕のはずが あれ?なんで自白してんの?っていう問題がこのところメディアを賑わせているけれど、さもありなん。露ほども不思議に思わないわ

まあ それは極端な例であるとしても

作為の何がわるい!真実がそんなに大事か、といわれたら…もちろん警察沙汰ではそうでなきゃ困るけどww 日常生活ではまあまあ、確かにね 悪いとばかりは言えない。私だってここではこんなに毒吐いてるけどww リアルでは自分を騙し騙し、やり過ごしている。どうせ騙すなら騙されていることに気づかないくらいの完璧さで自分の脳を騙してやれよ、っていうのは 脳科学的にはカッコいいのかも知れないけど(??) アタシは不器用なので。警察の誘導尋問に感じた同じ不気味さを感じてしまう。境目がよくわからないのでこわいのだ

やっぱりなんとなく基本的には「本当のこと」のが大事なように思う。たとえそれが自分のこうあって欲しいという思いに反するものであっても。…いとも簡単に自分の脳を騙してしまう習慣がついたら 警察に捕まった時(←!?)困るかもしれないしねww 自分を偽って暮らしているという気付きがいかに苦しくても、こんなところで毒吐いてカッコ悪いw自分がいても。本当は本当のことのが大事なんだ、できるだけそこに近づくんだ見つめるんだ、という思いはなくさずに生きていたい。なんにもできなくても 肉薄できなくても さらには実体さえないのかもしれないけど できるだけ近づこうとはしていたい

自分についての本当のことなんて、他人にとってはどーでもいいことであって 自分しか見つめる人はいないわけだから まあこれもカッコ悪いけど、別にいいか。みたいな。いまさらカッコ悪いとかもうね。知ってますよそれがなにか?と
というような言い方を私はよくするけれど。何をもって「まちがい」としているのか。
ざっくりとした区分けをしておくと

強要する、喧伝する、否定する。←字面みただけでも全然ポジティブじゃないけどww この成分が入っているかどうかですね。

育ちがいい人たちを観察していると、ナチュラルにポジティブな人たちが多いと感じるけど、それは何かの裏返しじゃないから。天然みたいなものだから。それが普通だと思っているから、声高にリア充アピールとかしないし。愛とか絆とかwもあんまり叫ばないね。なんというか、必死な感じはしないww
まあ心配の少ない環境で育っているわけだから精神的にも安定するのは当たり前っちゃ当たり前だけど、感情に流されることもすくないらしく。余裕があるから基本的に博愛主義ではあるんだけど、自分が苦労した経験があまりないので、余計な感情移入が発生しない。←これは褒めてます。自分にできることはここまで、と設定したところまできたら、それを超えることはしない。

ネガティブな人やものごとに出会っても、ことさら否定しない。もっとああすればいい、こうすればいいとかお節介もしない。ただちょっと首をすくめてやり過ごすだけ。時には冷淡にさえ見える態度だけど よくも悪くも自分周辺で満足しきっているので、ある意味閉じてるんだよね。その埒外のものにはあんまり興味がないというか、わるく言うと想像しようとする意志に乏しいというか。でも自分の想像が及ばないことについては黙っているというのは、品のいい態度だとは思うし好感が持てるw これがアタシの思う正しい、というか ナチュラルなポジティブさ。

その境地にたどり着こうとして必死だな、というのが見て取れるのがまちがった...いや指向なんだからまちがってはいないかもしれないけど 結局なれてないじゃん、しかも自覚してないじゃん、というのがw アタシが言うところの、まちがったポジティブ指向。要するに、他人や環境を自分の都合のいいように変えようとすることに必死、っていうのかな。環境はともかく、他人は無理だろw そこまでのエネルギーを注ぐことにかえって現実に対する深い恨みでもあるのかと感じるわww そーゆーネガベースからポジポジ言ってる人からは自分と同じ匂いがするのでwすぐわかっちゃいますww なりきりに成功した人はごく少ない、ということも付け加えておく。スポーツ選手並に小さい頃からの訓練や環境が必要で、どうも世間で信じられているよりも簡単じゃない気がするんだが。誰もそんなこと言わないのが不思議。

捨て猫を見過ごせなかった私は、自身が愛されることに飢えていた子供だった。自らの境遇を重ねてしまい、見捨てられたくない恐れが強いゆえに見捨てられないのだ。でも育ちのいい家の子は かわいそうだけどうちでは飼えないから。とあっさり決断を下し じゃあね、と帰っていける。瞠目するというか、正直うらやましかった。そんなことで自己の優位性は揺るがないのだ。守ろうとする必死さなど微塵もない。アタシには真似しようと思ってもできないや、アハハ。
って本当にそうかな?

まあ正しいともいえるし 正しくないともいえるのが一番正解に近いだろうけど すべてはそんな風だから そんなこと言ってたら思考停止するしかなくなる。

そう、何事もある視点からは正しくて、ある視点からは間違っていると言える。正解はないというのがもっともあり得そうな正解。それを引き受けた上で、ある立場からそれらしく何かを語るという勇気が持てなかった私は、当初の希望だったマスコミへの就職活動に身が入らず、結果全敗したのはバブルも断末魔の頃。まあそれでよかったのだといまは思うけど、当時はかなり屈折した。いやいまも屈折はしているけどw 屈折も年季が入ってきたなww

(いまや屈折は友に近い存在。根はだまされやすいお人好しの単純バカの自分を「あれ?それ正しそうだけど、なーんかどっかおかしくね?」と立ち止まらせてくれる。いるのかいないのかわからない神様からのギフトだと思うことにしてるw)

まあこの場合の「ダメ」という定義とか線引きとかだって実はいろいろあると思うけど。キリがないので、「ダメなやつは努力が足りない」っていかにも言いそうな人物像 ー両親は大学出、自分も当たり前のように有名大学を出て上場企業に勤務、会社の金で留学とかさせてもらって退社、ベンチャー起業またはあんまり聞いたことのない私大の講師とか准教授の肩書きをもち、ビジネス系自己啓発本を2冊くらい上梓- とか仮定する。自分の出自がアベレージと思っているので、運が良いと言われることに辟易していて、ここまできたのは自分だって人並み以上に努力してきたんだぞ、とアピールしたくてしようがない。

無職で苦労した頃のエピソードとして「相続した駐車場の家賃収入(年間200万)でなんとかしのいだ」みたいなのが出てくるとかね。あくまで例ですけど。既婚子持ちで年収200万というのが多いとは言わないけど。その前どんだけもらっててどんだけ貯金があるんだよおい、みたいのは不問にするとしても。

まあその人がいいとか悪いとか言いたいわけじゃなくて(個人的にはいけ好かないけど)。言いたいのは、みんな自分の出自がアベレージかそれ以下と思っている、それ基準で話をしているに過ぎないということです。

政治家や勝ち組やリア充wwに限らず、持てるものが持たざるものの暮らしや思いなど想像できないというのは事実であり、逆もまた然り。

ただ、山を想像してもらうとわかるけど、頂上は下からみても「ああ、あそこだな」というのがよくわかるのに、頂上から下をみると個々の家とか街って見えないというか 目には入っても全景が大きすぎるのでもう些細な一部分の構成要素でしかないというのかな、そんな感じ。上から目線ってものがよく見えてないなと感じるのも、あながち下層にいる人間のひがみじゃないと思うんだよねー。話はまたそれたけど。

うん 言いたいのは、みんな自分の出自がアベレージかそれ以下と思っている、それ基準で話をしているに過ぎないということです。大事なことなので2回言いましたww

私はうっかり間違ってと言うか 中学までヤンキーだらけの下層辺境から 何も考えずにただ学校の成績なりに進学校>私大と 意図しなかったにせよジャンプ率高めで進んだので、それぞれの段階でかなりのカルチャーショックを体験した。一番驚いたのは、偏差値とか受験とか、是非はともかく意図的にせよ成り行きにせよ一定の基準でフィルタリングされた境遇にある人は、(当たり前かもしれないけど)驚くほど似通っている。近所とか親戚とか普段付き合うのも似たような人しかいないので、それが普通と思いこんでいる。そのこと自体に驚いたのだった。

私からみたら、両親が大学出でお父さんは有名企業勤務、お母さんは専業主婦(でいられるほどの経済力)で教育熱心、きれいに区画整理された分譲住宅地に住み、兄弟は幼稚園や小学校から有名私立でエスカレーター進学なんてそれだけで超のつく良家の子女にしか見えないのだがw、うちなんか全然普通だよ、そんなにすごくないよ?と友達はナチュラルにそう首を傾げる。兄弟の中で自分だけ有名私立に入れず、仕方なく公立高にきたと劣等感に苛まれている友人の悩みに、同情はしても理解なんて一生できないかもしれないと思った。大学なんてさらに「自称庶民」のセレブ揃いで(もう以下略)

同級生たちはおしなべて まっすぐで、親切で、やさしかった。余裕があるというのはこういうことなんだな、としみじみ思った。やさしさや正しさが人を傷つけることがあると知ったのもこの頃だった。ただ、そのことを言ってもここにいる誰も理解はできないんだろうということも同時に感じた。私は地球人のフリをして暮らしている宇宙人のようなものだった(…これも宇宙人になってみたことないので想像だけどw)。

彼らにとって、大学(しかもそれなりに有名)に進むことなんてごく当たり前のことでしかないのだ。だって、両親も親戚のオジサンオバサンもいとこ連中も隣の隣の家の子供も、みんなそうなんだから。それしか知らないんだから。そこスタートで、大学の格がどうこうとか彼らなりに悩んだりはしてるけど。兄弟みんな医学部なのに自分は...とかね。 悪いけど宇宙からみたらw悩むほどの違いがあるのかさえよくわからなかった。 ていうか いやいや自分なんて…と彼らが謙遜するたび 私の背景が否定されるような気がして だんだん心が閉じていった。私にとって学生時代は黒歴史だ。(なにしろバブル時代だったしみんながお金を持っていた。ある日は1500円のランチに誘われて断るしかなく100円の林檎を齧った。残り70円で電車に乗れずバイト先まで歩き、さらにアパートまで歩いて帰った。若いうちは体力で補えてよかったww)

親が受験だの進学だの経験してない(うちの両親は苦労して中卒高卒の地方出身者)と、進路相談しようにも話にならないって想像できます?子供にはいい学校に行ってもらいたい、自分たちのような苦労をせずにすむようにいい会社に入ってもらいたい、公務員になって欲しいとかは願ってる。それはそれで愛なんだろうとは思う。けど、じゃあいい学校って?いい会社って?いい仕事ってなによ?となった時に、彼ら自身よくわかっていないのだ。とにかく上へ。選べるなら上のほうへ。それだけ。

うちの長兄はコミュ障オタク気質(←アタシが言うなw)で高専に行きたがったが、なまじ成績が良かったので外交官にしたいとかうそぶく父親のごり押しで地域で一番の進学校に入学。結果は2年生にもならないうちにオヤジ過労死>かろうじて地方の国立大文系学部を出て職転々>倒産失業>しがない警備員←いまココ
高専に行っときゃ、ねぇ?と思わなくもないが 父親は仕事であまり家にいなかったので、兄の性格適正なんて実はよくわかってなかったんだろう。通知表には優等生的なことしか書いてなかったし。それで安心しちゃってさ。辺境で成績優秀ったって中央に出たらたかが知れてるのに、そういうこともわかってなかったんだろうし。誰にとっても気の毒としか言いようがないが、人のこと気の毒がってる余裕もいまはない自分

いけねぇ また脱線が長過ぎたが

とにかく 自分基準で、違う境遇にある人のことをダメとかレッテル貼ろうとするのもいかがなものかと。どの水準にいても 運のいい人悪い人、努力してる人してない人がいるだろう。結果というのは常に事後決定的で 自分の成功單というのは自分の身の上にしか起こりえなかったオンリーワン現象だと理解してから話をしようね、と。一般化なり理論化できないまま講釈垂れてるうちは、ただの自慢話でぶっちゃけウザいですよ、と。…まあ反面教師としてはそれなりに役に立つとも言えるけどww

上げ底、高下駄。それ自体はその人が選んだわけじゃなくて備わっているだけのものだから、いいも悪いもない。たとえば私自身は経済力には今も昔も恵まれないがw 努力しなくても本を読んだり勉強したりするのが好きなので、それができないという人がよくわからない。それが私の履いて生まれてきた「高下駄」なんだろう(ほかのことは人よりも劣っていることが多いので総合的人間力?としては平均以下だけどw)。学生の頃、いとこに勉強を教えてやってくれと頼まれたことがあるが、勉強嫌いな人にやれという意味も方法も分からないので断った。家庭教師のバイトのほうが断然割が良かったけれど、それもできないと思った。たぶん自らも下駄を履いてない状態から努力して身につけたのなら、教えられることもあったのだろうけど。

どこまでが上げ底で、どこからは努力の結果かというのは実は本人がいちばん自覚しにくいのかもしれない。全部努力して手に入れたものだと信じていたい、その方が自己評価も上がるし気分もいい、というのはわからないでもない。でもねー 努力が足りないと断ずるなら、その努力は誰にでも再現可能なものかっていうとこも含めて考察してからにして欲しいね。
まあもうこの期に及んで現状をなんかのせいにする気はない。過去も基本スペックも変えられないし。ポンコツでもなんとかやっていくしかない。

3連休に仕事してるなんて無能の証といわれたら はい知ってます、というしかない。自分でもダセェと思ってるから 裏垢で吐いてますよっと。

まぁ自営なので泥かぶるのも自分だしいまさらカッコつけても始まらない。カッコ悪くても喰ってかなきゃいけないわけで。リアルを充実させるとかもうどうでもいい。いっぱいいっぱいでも なんとか自力で喰ってくことがアタシのリアルライフ。社畜根性とか言われても、別に。下層貧民をdisって優越感に浸ろうなんて、勝ち組といわれる奴らもたいしたことないんだなと思うだけ。繰り返すようだけど、我が身の幸せにひとり「静かに」浸っていて欲しい。

だいたいどうなってれば充実してるのかなんて、人から決められたくないし。これだけは負け惜しみでなく、人ごみも行列もマジ嫌いだから連休とか出かけたくないし。ゾンビみたいにボロボロになったって、やることさえ片付けてしまえば平日に休める仕事でほんと良かったと思う。体なんて納品まで持てばいい。次の日死んでもべつに構わない。価値ある仕事かどうかとかそんなのももう興味ないし、仕事に殉じるというつもりもない。ただ死ぬまで生きるだけのことだから。とりあえず死ぬまでは喰い扶持が必要で、飼い犬と違って一度仕事に穴を開けたら次はないから。それに大して役に立たない人生ならせめて迷惑くらいは最小限にとどめておきたいしなぁとか、そんなとこ。

コーヒー一杯だって喫茶店に入らず済むように家から持っていくほどの、喰ってくギリギリの収入しかない人に出かけろ、遊べって言われても。はっきり言って、お金ないと遊んでも全然楽しくないですよ?
最初に言っておきますが、私は乙武さんのアンチでも何でもないです。ツイッターでRTする人が多いので、しばしば発言を目にする機会があり。そうだな、と思うこともあれば どうかな、と思うこともある。それだけです。

で、今日はどうかな、と思った部分。これも個人的体験にてらした感想であって、一般的にはおおむねその通りかもしれないですが。

「大人は、社会は、勝手にストライクゾーンを作り出し、そこに子どもたちをはめこもうとする。そして、どうにもその枠にはまらない子に対しては、眉をひそめたり、声を荒げたり。発達障害の子どもたちは、そうしたストライクゾーンから最も遠くに位置する存在。彼らの生きづらさは、想像を絶する。」


ここです。(下線は筆者)

私の子供時代は、先生からみたらストライクゾーンの圏内にいたと思います。でもずっと生きづらかったです。大人になってあまりの生きづらさに(自分アスペなんじゃないか)と疑って検査を受けたらADDといわれました。いまストライクゾーンと仮定されている圏内にだって、重度とは言えなくても発達障害の子はいると思います。

遅刻忘れ物はクラスでトップでしたがw 他動もなく成績も上位だったので、問題児とは言われませんでした。誰からも注目されず何のケアも受けなかった。でも毎日混乱の中に生きてました。物心ついてからずっと頭の中にホワイトノイズがかかっているので、クリアな状態を知らないです。おおむね混乱しているのであまり動かないし言葉も出てこない。一方で過集中もすごかったので、好きな教科の勉強や読書は問題なかっただけ。極度の上がり性で場面緘黙もあったかもしれないですが、端からみたらちょっとぼーっとしている、人見知りのおとなしいだけの子供です。兄をみて反面教師にしたというか、大人たちを困らせてはいけないんだ、となんとなく思っていましたし。

その他動気味だった兄のように、ストライクゾーンから出た子たちは注目され集中的にケアを受けられて、語弊があると知りつつ敢えて言うと、正直ちょっとうらやましかったです。まわりの大人たちは全力でその子に関わっていて、その大変さは察するにあまりありますが。自分には向けられたことがないので。


この乙武さんの発言はストライクゾーンの設定そのものに対して疑問を投げかけるものだったので、それについて異を唱えるものではありません。ただ、その外側にいる子たちだけに目がいくのは同じなんだな、と少し哀しくなったので、自分の気持ちを書きました。そうはいってもどっちが大変とか、程度の問題や比較を論じる気はありません。何度も言うように、自分の気持ちの問題として書きました。

乙武さんの一連のtweet まとめはここです
http://togetter.com/li/385883
やってみもしないで外野からいいたい放題、という態度もどうかと思うので お誘いがあり時間がゆるせば ボランティア活動なり各種セミナー、講演会のようなものに参加してみたり、時にはしてます。バカは嫌いだけど自分自身あんまり頭良くないのでw 自分の目で見聞きする機会も敢えて作ったり。

たとえば、中国で過激な反日行動に出る人の多くは個人的に日本人と交流したことない人、っていう話もあるしね(日経なんとかのコラムで読んだ)。実際どうなの?っていうリアルでの感覚を持っておかないと、妄想から必要以上の憎悪嫌悪に発展しがち。知識さえあれば 感情的になった自己にもうひとりの理性的自己がブレーキをかけてくれる(ある程度)。

ちなみに、私自身が語学学校や仕事で実際に会った中国や韓国の人たちは、頭の回転がよく、はっきりとものを言い、家族や友人を大切にする人々だった。いい人もいれば悪い人もいる、気の合う人合わない人もいる、コレは日本人も同じ。国籍関係なし。…ということがリアルで了解できていれば、テレビニュースが連日なんといおうと、困ったことになったなぁとは思えど、〇〇人憎し!などという物騒な思考回路には行き着かないものだ。

だいたい日本人同士、国内政治でだって気に入らないことはごまんと起きている(ていうか日常そっちのほうがむしろ大問題)。デモで何かが変わるならとっくに変わってる。(例えが古いけど)ベルリンの壁はデモだけで崩れたわけじゃない。国会大包囲網にせよ、経産省前のハンガーストライキにせよ、若者や当事者はともかく、学生運動崩れの団塊世代っぽいのが混じってて「もっと声を出せ!怒りをぶつけろ!」とか煽ってたりして、なんだかなぁ。安保、続いてますけど。そっちはもういいんですか。あれで変えられなかったんだから、いいかげん他の方法考えようよ、とか思ったり(その方法があるのかないのかわからんが)。ていうか、鬱憤晴らせれば安保でも原発でも何でもいいんじゃないの?というのは憶測であり、話はだいぶそれたけど。

いまどきのムーブメント(シェアとか癒しとかつながりとか震災とか)をテーマにした集まりでは、たいてい自分よりずっと若い人たちが多くて、みんなすなおで真面目で感動家で、いい子たちなんだなぁ(…そしてお金あるんだなぁ)と思う。まあ自分の食い扶持は心配しなくてもいい境遇っていうのは、本来そういう活動の前提なのかもしれないけどね。(まあだから学生のうちは大いにやればいいと思う)

その場はなんとかやり過ごすけど、やっぱり独特の空気に馴染めなくて(爆)だってきれいごとばっかりでふわふわしてて…w 自分ひとりの魂が真っ黒なんじゃないかみたいな嫌悪感に包まれてしまうのだけど。合わないってこういうことだよね、とつくづく思う。お金の話なんてとても言い出せない雰囲気w

それでもまあこういう人たちがやっているのね、とリアルで理解しておけば 疎外感はあっても敵愾心はうまれない。求められれば感情抜きにして手伝うことだってできると思う(ししたこともある)。

ただ一緒になにかやり出すと、水面下でリアリストたちが汚れ役引き受けてギリギリのところで失敗を免れた…ふぅ みたいな案件も「大成功でした♪」とか無邪気に自分の手柄のようにツイートしてたりするのに疲労感おぼえたり。どう考えてもちょっと無理なプランを無理と言ったらネガティブな人たちに邪魔されて実現できなかった、とか(こっちのせいかよ!)。精神論を持ち出されるのはどうもね。気の持ち様が関係ないとはいわないけど、現実はもっとずっと複雑だし。こんなアタシにさえ信じられないような悪意にも満ちている、残念なことに。

言ったもん勝ち、というか先にラベル貼ったもん勝ちみたいなのも、なんだかなー。影響力のある人が成功といったら成功、みたいな。まあギリギリでした、って正直な告白したところで誰にもいいこと何もないでしょwってのはわかるけど。本当のことは置き去りにして、信じたい姿、言いたい言葉、聞きたい言葉だけで世の中が埋め尽くされていくみたいで、なんだかちょっとコワい。

きれいな画集や写真集は見ていてとても癒されるものけど、それはこの世界の美しいところだけを切り取ったものだから。現実そのものではないよね。それ以外がなくなったらそれはそれで困るよね。美しいものを集めるのは構わないが、その中でだけ暮らせはしない。(…いっそ独立国を作るとかする人があらわれれば面白いけどw 確かオーストラリアに実在したね?)
私とすぐ上の兄は年子。 さらにその上の兄と6歳離れているのは
長男の出産後しばらく、母が体を壊していたからだ

未熟児だった長兄の子育てにようやく手がかからなくなった頃
次兄が生まれた。体調の回復も完全ではない中
久々の子育てに追われる日々

動き回るようになってみれば、他動気味で目が離せない次男
再び身重となった体で必死に追い回す、十月十日

次は女児を、と待望していた父は次兄に無関心
そうでなくとも 当時は週休2日など 海の向こうの夢物語
盆暮れの休みも暦に忠実に3日程度が普通であり
家庭に父が不在がちなのは
誰も疑問に思わないほど当たり前だった時代

年の瀬も迫り 心身ともに疲れ果てた母体から
産声も上げず 私は生まれた

赤ん坊なのに 真っ白な顔をしていたと
述懐して母はいう 難産でこそなかったが
へその緒が首に巻き付いていて 仮死状態だったからだ

そう 生まれると同時に 一度死んでいる

でも死ななかった

逆さ吊りにされ平手打ちを浴び 呼吸は開始され
そしていまも続いている

そのことの「意味」を いまもときどき考えないでもない

生まれてからも あまり泣かなかった
次兄がいたずらするので、押入の布団の上に寝かせておいたまま
忘れてしまうほどだったという
ずっと押入の天井を見ていた私の後頭部はいまも絶壁だ

「気がついたら大きくなっていたのよ、この子は」

手がかかる次男の世話に追われる一方で
手のかからない末っ子長女 待望の女子だったろうと
外野からは想像されるが 3人目ともなれば
男女関係なく、注目の度合いは下がる
どこまで放っておいても大丈夫か、親も学習するのだから
この時点でネグレクトぎりぎりの扱いは必然の成りゆき

2番目のポジションに望まれた「女児を」という思いもすでに色褪せ
そういう意味でも、私はタイミングを逃して生まれてきた

生まれてすぐの赤ん坊は
まだ母体の一部であった時の記憶をとどめている

かつて母の一部だったそのとき すでに知覚していたのだ
母の注意が 全身全霊でもって次兄に向いていることを

未分化の私は まだ半分母の手足のようなもので
母の意思を反映し 黙って自分の番を待っていた 待ち続けた
でもその順番がめぐってくるのは
自分自身が望んだ時よりもずっとずっと後だった
赤ん坊にとっては永遠に近いほど

私は 生まれてまもなく
望むこと そのものをあきらめる態度を身につけたのだろう
そのほうがエネルギーロスが少ないからだ
長く待つためには必要なことだった

願望を封印する 自ら気づかないフリをする なかったことにする

我ながら親孝行だと感心するがw
もちろん 親のためを思ってなどではない
他の命より優遇されて生存の確率を高めたい
自己保存という本能のなせる技
それをときに人間の世界では愛情と呼んだりもする

親の望み通り振る舞えば、愛してもらえるはず

親を困憊させ注目を独占する次兄の存在に対し
私が採用したカウンター的戦略だった
(もっとも赤子の戦略など 直感以外の何者でもないが)

そうして自分の順番を待っていた 待ち続けた

順番はとうとう めぐってくることはなかった

問題の少ない良い子に振る舞えば振る舞うほど
この子は心配ない、と放置される 後回しにされるという
逆説に気づくには 当然幼すぎたのだ

完全な戦略ミスということに気づくのは 小学校を終える頃で
すでに基本的な方針転換は困難なほど 成長してしまっていた

大人になったいま 振り返ってみれば
子供らしくない、かわいげのない子だったという
子供時代を過ごしただけ 愛されるはずもなかった

誰のことも恨んではいない ただ神様を信じなくなっただけ
教えてくれるものがあるとしたら 神様しかいなかっただろうから







こうして性根の曲がった大人(ACだけど)の一丁上がりw
この年でグレてみたところで 自己責任のひと言で終了

まあ持って生まれたものが 性格の大半だという
事実は変わらない 脳の仕様なのだ
暴挙にはそれを上回る暴挙をもってしか凌駕できないと
当時気づいたところで、そのように振る舞えたかどうかは
甚だ疑問 生まれついての事なかれ主義者wというほうが
事実にそっているのかもしれない
自分が楽しければそれでいいじゃん?という 自己満足で満たされている状態を、内的準拠状態とかいうらしい。他人と比較する必要もなければ意味もない、と。高名(らしい)大学の先生(准教授で講師)がのたまっていた。

趣味の範囲なら、それは否定しない。

だけど、仕事となれば話は全く別。前にも書いた気がするけど、仕事は他人を満足させる見返りとして金をもらう、という営みだからだ。自己満足でいいわけがない。ていうか通用しない。

もっといい仕事がしたい(自己追求という意味にせよ、もっとお金を取れるレベルに達したいという世俗的レベルにせよ)と思ったら、どうしたって他人と自分の仕事を比較せざるを得ないだろう。超一流の仕事をも見聞きする必要があり、たいていの人間は(どんなに努力しても自分はそこに届かない)という現実を突きつけられる。言うまでもないけど、その世界でほんの一握りの超一流がいて、一流がいるということは、裏返せばその他大勢の二流以下が同業者として存在するということだ。

もちろん一流でなければ存在価値がないとは言わない。「その辺の人よりは」ちょっとうまくできるとか早くできるとか効率の良いノウハウを構築しているとかすれば、自分でやるよりはいいだろう、と思う人たちから幾ばくかのお金をもらい、代行し、生計を立てることは出来るかもしれない。自分でやるよりはよくできたとか、早くできたとか、楽にできたとか。ちょっとは感謝されることもあるかもしれない。

そういう、ささやかなご町内レベルのお役立ち感でさえ、いやだからこそ、ちょっとの油断でちょっと安いとか早いとか口がうまいとかいう同業者にあっさり攫われてしまうものなのだ。そりゃそうだ。この人にしかできない頼めないというレベルでなければ、大差なんてないんだもの。技術変革のスピードもひと昔前より格段に早くなる一方で、頭脳も体も老いていく。追いつくだけでも必死だ。一流になれないからといって、比較や努力はやめて楽しく♪なんて諦観することはありえない。

これが大方の「好き」を仕事にするということの現実だ。苦しいことばかりではないが、苦しいことは想像されるよりはるかに多い。好きの度合いに能力値が見合わなければ、楽しみと苦しさの差し引きは常に赤字なのだから、続ければ続けるほど、苦しい記憶の債務超過が増していく。「好き」なことを仕事にしているはずなのに苦しさが募るという葛藤は、実に割り切れないものである。(正直選択肢があるなら辞めたい…)

そのへん最近の子は賢いのかなんなのか、昨日NHKで時給アルバイトをしながら「趣味の」音楽活動をしている20代の若者を取り上げていた。…番組では新しい価値観、としていたが、そうかな?まあ仮にそうだとして。ひと昔前と違うのはプロになるとかデビューするとかいう「夢物語」の前座としての腰掛け、ではないということか。趣味に差し障るほど仕事に時間も労力も割きたくない、だから時間で上がれるアルバイトという選択なのだそうだ。…やっぱりそういう人たちは昔からいたような気がするが まあいいや。あの年で自ら「幸せでもないけど不幸でもないからそれでいいです」って言い切っちゃえるのが本心だとしたら、へえと思うけど。いずれたどり着くところは同じでもw文字通り10年早いww

何かものすごく長い老後みたいな人生を若いうちから始めるわけだけど、「持続可能」なら別にいんじゃね?みたいな。10年後の彼がどうなっているのか興味あるけど。10年くらい前にフリーターですがなにか?って言ってた子たちが いまや30代半ばも過ぎてオタオタしているのとは違う結果に行き着いたときはじめて、そりゃ新しいねってことになるんだろう。

話がそれたけど、何が言いたいのかというと、はじめから「好き」を仕事にするリスクを回避しているというところに感心した。番組を見た限りでは悪いけど 趣味で正解、というレベルだったし。さすが情報が多すぎるほど多い時代に育ってきただけあって、自分の能力値を客観視できているようだ。

若くして夢も見られないなんて、情報過多というのも罪な世の中だと思ったり。いずれ同じ諦観にたどり着くなら本人的には手っ取り早くていいかもね?と思ったり。

世間的な視点でいえば、数少ない若者がこれではさらに世の中から活気がなくなって、経済は失速するのだろうけれど。負けると分かっていても挑戦することに意味があるんだ、と無責任に焚き付ける気にはなれない。それこそ、夢を見させることこそ、超一流と呼ばれる人たちの仕事なのかもしれないけど。二流以下の苦しみを知った自分にはできない相談だ。