子供の頃、鶏口牛後という言葉を習い色々感じるものがあった。

 

「鶏口牛後」の由来は、中国初の通史『史記』のなかの「蘇秦伝(そしんでん)」にあります。蘇秦(そしん)とは中国戦国時代の政治家のひとり。秦以外の6か国(韓・魏・趙・楚・燕・斉)の王に対して「大国である秦に従うより、独立国として連合して秦に対抗すべきだ」と説き、同盟を組ませて秦の侵略を防いだという策士です。その際、韓の宣恵王(せんけいおう)に「むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」と説得したことから、「鶏口牛後」という四字熟語が生まれました。

 

自分は昔からリーダーシップもないし、人から尊敬されるということがほとんどない人生を歩んできた。またこれと言った才能があるわけでもない自分がどうしたら高みに辿り着けるか考え続けていた。そんな自分の生き残り戦略は鶏口ではなく牛後を利用して強くなる事。

強者のいる世界に牛後でいいのでなんとか入り、強者から学び強くなる事。

その結果ある程度うまくいっていると思い続けていた。そしてこの諺は間違っているのになぜ諺になるほど現在まで残り続けているのか疑問でずっとこの年まで心に残り続けてきた。

現在アラフィフの自分は少し人生の見方が変わってきた。鶏口を目指さなければ得られないものがあると。リーダーシップでグループをどこかに導く力、後輩やできない人を導くような人を導く力は人間にとって重要なことではないかと思う。人類の発展に寄与することこそ必要な人間の資質ではないか。この文章を読んで多くの人は思うだろう。今まで牛後だった人が時間と経験を経て鶏口になっていくもんだよと。しかしながら自分は違うようだ。自発的に何かをできない、人に遠慮してしまう、普通の人の正しさがわからないなど鶏口になり得ない資質を持ち合わせている上に人生かけて間違った思想のまま現在に至ってしまったかもしれない。

 

鶏口になる資質のない中年男はどうやって生きていったらいいのか。