尼崎市神崎から大阪市北区角田町まで中国街道を歩きました(9.0km)。

途中、道標を3基確認しました。

 

中国街道は、地図中、北西から南東に走る茶色及び薄茶色(拡幅された車道)の道です。黒は旧道がなく迂回した所。

 

(起点)

有馬道(本道・間道)と中国街道は、神崎で重複しますので、西川の道標を起点とします。(神崎はWAK001からの再掲です)。

 

尼崎市西川2の地蔵道標

北へ向かう有馬道(間道・本道)と、南へ向かう中国街道、東の神崎渡しに向かう道の三辻に、道標が建ちます。

→DAG005:尼崎市西川2の地蔵道標

 

須佐男神社

 

田中邸

「神崎川の渡しの近くに位置する、平入り切妻造り、厨子二階建の町屋で、正面10間、奥行9.5間の堂々とした構えを有している。耐震性や利便性を考慮した改修により、屋根、黒壁、虫籠窓、格子、腰板を新しく整え、母屋東側の駐車場も同様の手法でしつらえ、伝統的な民家の面影と地域固有の景観の維持に貢献している。」「尼崎のふるさと 町に残る美」⑳、尼崎市都市美形成建築物所有者ネット研究会・松琴会発行より)

尼崎は、近世には、このような美しい町屋が立ち並んでいたのですね。

 

神崎

 

虫籠窓があります。

 

金毘羅さんの石灯篭

 

「金毘羅大権現」とあります。

 

「金毘羅さんの石灯籠

金毘羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で、早くから舟乗りらの信仰を集め、とくに室町時代から江戸時代にかけて盛んとなりました。神崎の津は、都から西海へ行き来する船と人々でにぎわい、航海の安全を祈念しました。この石灯篭は、灯台の役割を持つものです。現存のものは、石造りですが以前は高灯篭ではなかったかと考えられています。願主岸田屋治兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く多くの人々から寄付が集められ、文化元年(1804)ごろ建て替えられたものです。この石灯篭は、その後も町の人々からは「金毘羅さんの灯篭」として親しまれています。着船場に近い堤防上にありましたが、堤防工事の為現位置に移設され、保存されています。

 尼崎市教育委員会」(現地説明板より)

 

神崎渡跡

神崎渡跡より神崎川上流を望む。見えているのは山陽新幹線の橋です。

 

今昔マップより (明治44年と現在の地図を重ねて表示)

神崎渡しは、藻川が神崎川に合流する地点にありました。現在は少し南側の県道・府道41号線上に神崎橋が架かります。

 

神崎橋より神崎川下流を望む。

 

神崎橋を渡り、対岸の加島側の渡跡へ向かいます。

 

加島側から神崎渡しを望む。

 

加島側から、2河川の合流地点を望む。左側が藻川、右側が神崎川です。

 

中国街道の旧道に戻りました。道は東へ向かいます。

 

富光寺 高野山真言宗

摂津国八十八ヶ所 第七番霊場

 

加島

 

香具波志神社

 

 

大阪市淀川区加島4の里程標

香具波志神社の北入口の神社石標の東側に、明治40年6月に建てられた里程標があります。中国街道が国道第26号路線に指定され、起点の高麗橋元標から2里(7.85km)とあります。

→DOY009:大阪市淀川区加島4の里程標

 

中国街道は府道41号線に合流しますが、200m程でまた左の旧道に入ります。

 

三津屋中二丁目の祠

 

お地蔵さまがいらっしゃいます。

 

三吉大明神

 

三津屋

 

出世地蔵尊

「円光大師 出世地蔵尊 田川第五振興町会 町内安全 交通安全」とあります。

円光大師は、浄土宗の開祖法然上人の勅謚です。

 

お地蔵さまが3ついらっしゃいます。

 

大阪市淀川区田川北1の石標

 

中国街道より、分岐して北へ160m程にある長楽寺へ案内する石標です。

長楽寺は、孝徳天皇勅願所で開基は法道仙人、弘法大師が中興され、本尊薬師如来、摂州大師回り八十八ヶ所第38番とあります。難波宮へ遷都された孝徳天皇の勅願所が、淀川区の加島にあったことは、難波宮の位置を知る上で興味深いです。

→DOY001:大阪市淀川区田川北1の石標

 

北向地蔵尊

 

お地蔵さまが大事ににお祀りされています。

ご真言は「おん かがかびん さんまえい そわか」とあります。

 

今里

 

十三渡し跡

説明板の拡大です。

(明治17~18(1884~5)ごろの地図に今の淀川の流れを書き加えました)

説明板の地図の拡大です。

『十三渡し跡

 大阪から西へ向かう中国街道沿いに十三はあります。十三には、街道を通る人たちが淀川を舟で超えるために利用した渡し場があり、十三渡しと呼ばれていました。ここは川の北側の乗り場があったところで、渡し舟を待つたくさんの人でにぎわいました。休憩するための茶店などもあり、今も残る十三焼餅は、当時のにぎやかな様子を伝えてくれます。

 明治11年(1878)に、十三橋という木橋ができたため渡しはなくなりました。さらに、明治42年(1909)に完成した淀川の大改修で川幅が広がったため、川の南側の乗り場は川底となってしまいました。

 大阪市教育委員会(現地説明板より)』

 

十三大橋北詰西側より淀川を望む

 

交通安全地蔵尊

十三大橋北詰東側にあります。

 

『交通安全地蔵尊の由来

 この国道176号線(旧能勢街道)の十三大橋北詰の附近は 以前より交通が多く 事故による死者が絶えませんでした 淀川区加島の富光寺住職故松家広信大僧正が 事故を無くす為に 交通安全地蔵尊の建立の提言をされました 昭和43年12月7日 徳風会々長川舟喜太郎先生のご指導のもと 四国の日本一の石佛の名工泉先生の製作により この交通安全地蔵尊が建立されました 石碑の交通安全地蔵尊の文字は 奈良薬師寺の故橋本○胤貌下の輝豪によります 建立には 淀屋洋服店々主大塚誠一氏のご尽力と 故中島馨大阪市長の多大なご協力を賜りました 

交通安全地蔵尊のおかげにより 建立後三十年間事故による死者は一度もありません

平成6年11月新たに子供の菩薩様四体を祀り なおいっそう交通安全地蔵尊のご加護を念ずるものであります

 世話人 

   阪急十三駅西口前 十三本一商店会(現地説明碑文より)』

 

十三大橋北詰

 

十三大橋より淀川下流を望む

 

下三番

 

 

北野

阪急電鉄の高架を潜ります

 

古風な造りのお店です

 

(終点)

今昔マップより(赤丸が終点)

JRの高架を潜り、大阪市北区角田町を本日のゴールとします。

 

帰りに、日曜日営業中の大阪中央郵便局に寄りました。

 

今回、尼崎市神崎から大阪市北区角田町まで歩いた軌跡です。

 

実施年月日:2023年12月24日