このブログにて、

「即興」「インプロ」についてさまざま語るにあたって、

まずは自分自身の軸となる[インプロ観]を具体的に整理するため、

まず、「即興の本質とは?」を考えてみました。


【象】の鼻や耳のように、
長い鼻や、大きな耳が【象】そのものを示しているものではありません。
【象】の耳が必ずしも大きいとは限らないし、
大きい耳を象と思っている人は、
長い鼻に出会っても象だとはわからない。


【インプロ】の特徴としてよく挙げられる
「台本なし」、「打ち合わせなし」は、
即興の営みの一面にしか過ぎないし、

まさに【象】のように、
その長い鼻や、大きな耳の一事象で、
すべてをを示しているものではない。

まずは単純に日本語として「即興」という言葉の意味から
今まで自分が関わってきた「即興」を見直して見ようと思いました。

【即興】=“即ち興じる”
つまり、”その場で起こる興味をもとに演じる”ということ。

例えば台本を読むにしても、
その台本を初見で、その人物や情況に興味をもってセリフを口にすると同時に
人物を演じていれば、それはもう立派な【即興】である。
逆に興味を持たず、ただセリフを棒読みして読むだけなら、
それは【即興】ではなく単なる本読みとなる。
もちろん、湧き上がる情感を押さえてもなお棒読みするなら
それは【即興】であると思う。

つまり、「行動」「事象」で【即興】か否かを論じるのではなく、
「感情」「情況」「情感」の動きを
論理的にその後の行動をコントロールして封じることなく、
その瞬間瞬間あるがままに在れば、
それは“即ち興じる”ことになるのではないか?

頭の中に自分の編集者を置いて、
自分のこれからの行動の評価を行ってから
行動するのではなく、
まずは頭の中に浮かんだイメージ、情感を
自分自身の表現のツールを持って具現化する。
そんな感じかと思います。

ちなみに「インプロ」=improvisationという単語も
ラテン語"予見しない"が起源。
予見しない ⇒今を見る ⇒今を感じる ⇒今を生きる

【即興】の本質とは
 「"今"という瞬間を大事にして生きる」であると考えます。


ちなみに、即興=刹那的 ではない


「刹那」:仏教でいう最小の時間の単位


「刹那的」とは、
過去や将来のことを考えないで、
ただ現在の瞬間を充実させて生きればよいとする考え方。
また、一時的な快楽を求めようとする考え方
⇒「生きればよい」「快楽を求める」という独善的なことではなく、
【即興】で求めているのは、
「その場にいるすべての人が充実して生きられ、
 そして、恒久的に幸せになれるようにしていく」考え方。


つまりは、インプロをつきつめていく事は、

「善く生きる」ことにもつながっていくと思っています。


今日はここまで