先日、名古屋の星の研究クラスで海王星の探求をやりました。なぜか10-11月と各地で海王星をやる予定が重なっております。木星が魚座に逆行するので、ちょうどいいのかもしれないですね。
海王星……深淵で、やさしくて、やわらかくて、時々怖くて、やっぱりよくわからないわけです。
これは私たちにとって源へ還るヒントを表している惑星ですが、そこへ行くにはしがみついているもの、持っているものを全部手放していくことになるので、それはエゴにとっては非常に恐怖でもありますね。
なくなってしまうという恐怖。自由がなくなり「私」がなくなり、存在が消えていくようにも感じられるかもしれません。
疑似的には眠りに落ちるとき、毎晩体験するでしょう。自分を手放しながら眠りに落ちていき、そこで深く心の内側で源とひとつになることで、深い一体感と癒しを得ることになります。そして目覚めると満ち足りた気持ちで、新しい一日が始まるでしょう。
私たちは日常的に実にたくさんの役割に追われているので、本当のパワーや可能性を見失っているかもしれません。
何もないということは、何でもできる、何をするのも自由で、そこから始めることができるという意味において、パーフェクトです。
たくさんのものを持っていればいるほど、表現も行動も制限されて、型にはまったものをなぞらえ、繰り返していくことになるでしょう。
強制的に自分自身をリセットするのが、海王星の拠点である12ハウスが象徴する病院や刑務所、寺院、避難所などでしょうか。
そこでは名前や肩書きや役割や過去の行いは意味を成さなくなり、何者でもない自分へと還っていきます。
海王星は魚座のルーラーシップで本来の居場所となり、向かいの乙女座に海王星があるときにデトリメント(障害)となりますが、それはわるいのではなく、むずかしい配置です。
向かい合う星座やハウスは相互に補完しながら働くため、海王星がゼロに戻そうとするときに、乙女座の働きが欠かせません。海にダイブするときに、知識や機材が必要なように、ただ闇雲に海に突っ込んでいったら、溺れてしまうのですね。
病院や刑務所、寺院などの共通点として、時間できっちりと管理されていて、やるべきことが決まっているというところが、海王星の中の乙女座水星の働きとなります。
そこではどうしたいとか、したくないといったことは必要ありません。むしろ粛々と決められた時間に、決められた作業に没頭することで、自我を落としてゼロへと還るのです。
ものすごくショックな出来事が起きたとき、喪失や変容の苦しみが強くて何もできない、手がつかないというときに、大事なことは心の中がどうであれ、形だけでも食べて、家事をして、眠るということでしょう。
食べたくなくても、動きたくなくても、眠れなくても、泣きながら、苦しみながら、嘆きながら、その型をくり返していくことで、生命が私たちを行き着くべきところへと連れてってくれます。
これは決して感じないようにするためではなく、しっかりとそれを感じて味わうため、自身との内なる対話を続けるために、そのような規律が助けてくれるということでもあります。
デトリメントとなる乙女座の海王星においては、その規律がなくなってしまうため、何もできない、起き上がれない、どうしていいのかわからないという、混沌のなかに彷徨うような、深海のなかでもがくような経験にもなるのでしょう。
荒行などでは、あえてこの規律をほとんど極限にまで減らした状態を意識的に創り出してゼロに還ろうとすることがあります。
規律を曖昧にすることで真実に辿り着こうとする試み。それは機材なしに深海へとフリーダイブする試みであり、充分に準備ができていない状態で潜ったら最後、我を見失い、命を失うことにもなりかねません。
大阿闍梨の修行というのは、本当にこれだなと思うのですが、たとえば千日回峰行では1日48kmをおにぎりと水だけで千日歩き続けるということをします。
それを終えた人だけが挑める四無行では、狭くて真っ暗な堂に籠って、食べず、飲まず、横にならず、眠らずで9日間、ただひたすらぐるぐると狭い堂内を歩きながら真言を唱え続けるそうです。すべての方向感覚がなくなって、命が極限まで削られていく……。
空海が悟りをひらいたときにしたという虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるという修法ですが、堂内で睡魔や虚妄を退け、身体の痛みや苦しみも退け、百万を数え上げ続ける集中力を要するものです。
ただひとつの真言を命綱として、ゼロへと近づいていくのは、相応の覚悟と準備がある人だけが挑めるもの。秩序と規律を曖昧にしていく乙女座の海王星は、むずかしい配置であるなと思うのです。