蠍座の娘と母親の話 | ***Walk on the light side

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銀河に煌く星たちのように

外惑星たちが土星の作り出した構造を壊して、別の形に変える力を持っているのだとしたら、冥王星が踏襲された習性を、時間をかけてすこしずつ変容させていくのに対して、天王星は構造の持つ「あたりまえ」の常識に対してまったく別の形からアプローチすることで、一瞬でガラリと異なる見解をもたらすものだと感じます。

 

手品の種を知ってしまうと、もう以前みたいに引っかからなくなってしまうように。不可逆のそれは、ひとたびリフレーミングされてしまうと、同じ風景がまったく異なるように見えるのかもしれないという、そんな心境です。

 

 

8月8日に洞川温泉でザビエにセッションをしてもらいました。通訳はもちろんオーガナイザーの持田直子さん。

 

8ハウス研究会シーズン2の最終回を京都で終えたあと、私たちは奈良へ移動して長谷寺に一泊し、さらに南下して天川に向かい、洞川温泉にもう一日泊まることになっておりました。

 

その夕方。温泉宿でふたりにセッションをしてもらったのですが、いつものように心の深い部分に触れるだけでなく、冒頭に書いたような、カチリと何かが切り替わるような、不可逆の天王星の叡智に満たされる体験となりました。

 

100分強にも渡るその全貌を、とても全部は紹介しきれないので、その一部の、最も重要なところだけを記録しておきたいと思います。

 

いつもザビエは「どんなことを聴きたいのか」を最初に尋ねてくれるのですが、このときはおもむろに、私の両親のチャートを読み始めました。それがとても自然な感じだったので、私もその流れに引きこまれていったのでした。

 

ザビエは時間をかけて、特に私の母親のチャートを読んでくれました。それを聴きながら気付いたことは、私は自分の偏見を通してしか、それを読んでいなかったなということ。心の中に横たわっている感情が邪魔をして、冷静に第三者の星を読むようにそれを見ていなかったなあと、つくづく感じさせられました。

 

私の記憶にある、幼少期から少女時代の母親の印象は「怒り」です。いつも怒っていて、すぐにキレる。そしてひとたびキレると手に負えず、泣いても謝っても絶対にゆるしてもらえない。私にとって母親は、怒らせてはならない、とても恐ろしい存在でした。

何度も家から追い出されて、怒鳴られて、泣かされて、めちゃくちゃにされて、否定されて、心が木っ端微塵になるような体験が繰り返されました。そして、度重なるその体験は、私にひとつのメッセージを刻み付けたのでした。
 

「私は母親から愛されていない」

 

母親から愛されていない子が、自分を大切にできるはずがありません。私の人生の冒頭の十数年は「価値のない自分」を持て余し、生きることに絶望して、死に魅了された日々でした。

 

私が占いの仕事を始めたのは22歳の頃で、かなり早いと思うのですが、逆にいえば何かに生きる意味を見出さなければ、生きていくことが到底できなかったんですね。

 

私には生きる理由と、存在意義を知ることが必要で、それを精神的なものと、目に見えない世界に見出そうとしたのでした。

たくさんの学びと、たくさんの癒しを経験しました。結婚して、子どもを産んで、育てながら仕事をして、多くの人と出会い、経験を重ねて、学びを深めるなかで、すこしずつ成熟と理解が起こっていきました。これは私にとって冥王星的な変容の体験です。

 

結婚して以降、母親が私に怒ることはなくなって、時間が経つにつれて、私たちの関係はどんどん良好になっていったのでした。

 

 

「あなたを産んだことで、お母さんは自分の中にあった、深くて暗くて不安と怖れにまみれた怒りを感じざるを得なくなったけれど、それは感じて、表現される必要があったんだ。その深い怒りを感じることが唯一、お母さんが生き延びるための道だったから。それしか選択肢がなかったんだ」

 

ザビエがそういうのを聴いて「そうだろうな」と素直に感じる私がいました。その前にザビエが母親の来歴と共にチャートを紐解いてくれたのですが、母親は本当に絶望を抱えていたのだろうし、性格的にそうすることで生きるための力を得ていたことが理解できたのです。

 

「そしてあなたは、この母親との経験があったからこそ、自立して、自分の家族を作り、仕事することに成功できたんだ。もしお母さんがあなたに怒りを向けるのではなく、共闘を持ちかけて、その状況を生き延びるためのパートナーとしていたなら、きっとあなたはその関係と家族から抜け出ることができなかっただろう」

 

それも、ものすごく納得できるのでした。

 

本当のことをいうと、私はもっと甘えたかった。でも母親の怒りに対する絶望が、それをあきらめさせた。だけどもし母親が怒りでなく、私を共闘の相棒としていたなら、私の性格上、確かに母親をおいて家を出ることは到底できなかったかもしれない。

 

そう考えると、そこで起こったことがなんであれ、結果的に私の人生は、ドラマとしては苦しいこともたくさん体験したけれど、パーフェクトだったんだなと感じられたのでした。

 

私の存在が母親のブラックボックスだった怒りを誘発させてしまったけれど、それを認知することで母は生き延びることができて、そしてそれがあったから、私は自分の人生を生きることになった。

 

なんて美しいんだろう、家族のシステムは。

 

一個人として未熟な私たちが、お互いを刺激し合い、成長する。そこにはさまざまなドラマがあるけれど、それがなんであったとしても、ファミリーツリーは時にゆがみながらも、やっぱり成長していくのです。

 

 

「あなたにこれからチャレンジがあるとしたら、それはお母さんをゆるすことだ」とザビエが言ってくれたとき、私はもうすでに母親をゆるしていることを感じていました。

 

だって私がゆるせなかったのは「お母さんが怒ったこと」ではなくて「お母さんが私を愛していないかもしれないこと」だったから。

 

私は愛してほしかった。間違っているというメッセージではなく、そのままでいいのだといってほしかった。弱さを否定するのではなく、弱くてもいいのだといってほしかった。

 

それが与えられないことで、私は愛されていないのかもしれないと勘違いしていたけれど、それが母親が生きるためのものだったなら、仕方ない。

 

私のことが嫌いだから怒っていたのではなく、生きるために怒りを持つ必要があったのであれば。

 

 

ずっとずっと前に、母の母であるおばあちゃんが亡くなった日のことを、よく覚えています。訃報の電話を受けた母親は、その場に崩れ落ちて「母ちゃん、母ちゃん」と叫ぶように泣き出したのでした。私はそんな母親にすがりついて「お母さん、お母さん」と、わんわんと声をあげて泣きました。

 

慟哭しながら、母を乞うるような強い愛情が、私の身体にも色濃く流れているわけで。

 

いくつになっても、母が恋しい。

 

そのことに諸手をあげて降参するしかないような、いとおしい、夏の時間を過ごしています。