そこに「在る」ものに名前を与えると、それは存在として
輪郭を保ち、名の持つ制限のなかで実体化していきます。
逆にそこに「在る」ものから名前を外すと、その名が
有する制限が消失して、わたしたちは自由になるのかも
知れません。
本音を語るときに、名前と顔を出すよりも、
匿名のほうがより正直になるかも知れないし
誰かが見ているとできないことが、
誰も見ていないとできるかも知れません。
0と1のあいだにある世界は
そこには「在る」けれど
誰かに見つかりにくい世界。
意識と無意識のはざまにある識域の
魂が自由に跋扈する世界。
2012年2月から海王星が魚座に入宮していて
いまのわたしたちの全体性を進化させる、
あるいは全体性に帰還させるためのカギは
海王星にあるのかも知れないと感じています。
海王星は、わたしたちをひとつに近づけるため
集合に向かって我を忘れさせることを促します。
占星術の勉強会をしていて、海王星の働きが
活発な人……太陽や月と合や衝を作っていたり
アングルに海王星が位置していたりする人に
お話をうかがうと、いくつか共通の特徴がありますが
そのひとつに「マトリョーシカ・システム」が
あるような気がしています。
「○○の社員である、わたし」
「母である、わたし」
「××のメンバーである、わたし」
「鈴木花子という名のわたし」
など、わたしたちは対外的に区別される名前あるいは
役割を大抵、複数持っています。
その役割をある種の人型として前面に置いておき
本体はシュッとその人型のなかに隠れてしまう、
というのが、マトリョーシカ・システムです。
つまり、外側の「わたし」に適当にアイデンティティを
有する役割を演じさせておいて、本体の「わたし」は
安全な内側に隠れている、というわけです。
「わたし」のなかに「わたし」を隠すので
マトリョーシカ。
外側の「わたし」を、本体の「わたし」が見ている
という、ある種の瞑想状態といえるのかも知れません。
その進化版がマトリョーシカの式神システムで
「外側のわたし」の数を増やし、あちこちで役割を
こなしつつ、そのどこにも本体を入れないでおく
という手法をとる人もいるようです。
消えるマトリョーシカ。
「わたし」が「わたしの役割」を外に置き
それにとらわれずに内側にいることで
「名の持つ制限」が形骸化され
思考が止まり
魂が自由になり
「こう在るべきわたし」が消えて
「在るがままに在るわたし」が立ち昇る。
そんなことが当たり前になり
それが新しい時代を切り拓くカギかも知れないと思う
魚座に月と水星と海王星が集まる夜なのでした。