待つことって、辛いですよね。
とっても辛抱のいることだから。
たとえば、待ち合わせの場でずっと待つ。
たとえば、帰りの遅い夫を待つ。
たとえば、なかなか戻って来ない子供の帰りを待つ。
あるいは、人がねぎらいの言葉をかけてくれるのを待つ。
あるいは、人が感謝を表してくれるのを待つ。
あるいは、人が謝ってくれるのを待つ。
「ご苦労様」「有難う」「ごめんなさい」の言葉を、私たちは人に期待して待つ。
家の中では家族が断捨離してくれるのを待つ。
そうだ、いつか捨ててくれることを待つ。
この家族が溜め込んだ"わたし”を悩ます邪魔なモノどもを、
舅姑が、夫や妻が、親や子供が、捨ててくれることを。
誰かが何かをしてくれることを待つ。
黙っていても相手が察してくれるのを待つ。
”わたし”が待っていることを分かって貰えることを待つ。
待って、
待って、
待って。
そして、そうしてくれないことに苛立ちを覚え、
そうならないことに怒りを覚え、
やがては、暗澹たる気持ちに陥っていく。
そうして、悩みを深めていく、誰も、"わたし”のことなど分かってくれないと。
待つことは、相手への期待とも言えますね。
けれど、その期待に応えるのは相手の領域。
だから、思いどおりにならないことの方が常なのかも知れない。
なぜなら、相手には相手の事情があり、それぞれの思考感性価値観があるのだから。
だったら、どうしましょうか。
ひとつは、待つことを手放していく。
そう、相手への期待を断捨離する。
でもこれは、言葉で言うのは簡単だけど、なかなかのトレーニング、修練が必要なこと。
けれど、究極、断捨離の目指す境地はこれ。
いわば、断捨離の「離」の世界。
ああ、まだまだだね、この私、やましたひでこも。
私自身、この螺旋階段を、ひとつひとつ、一段一段、登ってる途中で最中だから。
だとしたら、せめても、待つこととは、
相手へのこちらの都合でによる期待にすぎない場合があることも、その時々で意識して自覚できる自分でいたいと思う。
._._.\._._._._ここまで
