山岡荘八著徳川家康も関ヶ原の戦いを終え、いよいよ三成の最期となる。18巻目読了である。

厭離穢土欣求浄土。
戦いに明け暮れ汚れた世の中を清らかな日本に。

家康の天下統一が概ね完了した訳だ。
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そこで石田三成である。
惨めな最期ではある。
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関ヶ原での敗戦が濃厚となると戦場から逃れ、郷里の東近江辺りに隠れ、大阪城への帰還を目指したという。いわゆる落ち武者である。潔く戦場で見事に散った大谷吉継とは、武将としての胆力が違いすぎる。生への執着なのか、戦場慣れしてないせいか、大将閣が生き恥を晒すことを選択したのは、いかにも三成らしい、のかもしれない。

東軍は、この石田三成を何としても捉えなければならない。そんな中で、三成は、郷里の村人達に匿われる訳だか、結局すぐに東軍に見つかり捕縛される。
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そこでこんな話もある。
ネットで調べ以下引用した。

  • 三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。しかし、隣村の出で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。

実はこの話、昔旅番組で近江周辺を取材した時に、村の人から直接聞いたことがある。

村の年配の人が語気を強めて僕らに教えてくれた。

うちの村は他の村から養子をもらわん!
郷土の英雄、石田三成の居場所を教えたのが、他の村から来た婿養子だったからだ。

いやはや、関ヶ原の戦いから400年以上経っているのに、この慣習を守り抜く村人達に驚いた。子々孫々、伝えて来たのだ。

何とも婿養子さんには生きにくい村ではある。

郷土に伝わる歴史秘話である。