私は本当に幼いときからよく病気をする子でした。
小さな病気から、小学校の時に「よくもって2日です」と父母に医者が宣言されて、私自身は臨死体験(そうなんですよ。詳しくは後日に!)するくらいの重病までしてきました。
そんな私の経験から、子どもの病気を直すのってここが大切と思うヒントを書きますね。
ここからは、私の体験からの私感です。
お役に立たない方はスルーしてくださいね。
病気になるには「ならなければいけない理由」があったような気がします。
何より、病気を直すには、まず病院へ行って、ちゃんと診察や検査を受けてくださいね。
で、その後に、絶対に見直すこと。
それは「夫婦関係」だと思います。
私は育った家庭は結構複雑でした。
父はギャンブルやお酒に依存する人でした。
そして、姑もいる(私が生まれた頃は、大姑も)、そして兄。
兄は実は、父の先妻の子で母とは血がつながっていないと成長してから知りました。
(その時の驚きと涙は、またこれも後日に)
母は、熱烈な恋愛で父と結婚しながら(兄のことも勿論承知で)、
結婚してみたら化けの皮をはがしたような父の凶暴さと、
姑と暮らす不自由さ、そしてなさぬ仲の子を育てる違和感で、
結婚した翌日から居場所がない。
「失敗した」と思ったそうです。
そんな中、出現したのが私でした。
母の唯一の「家にいるしあわせ」が私という存在でした。
私の一挙一動に、母が一喜一憂するという過剰ともいえる愛情の中で育ちました。
有難いです。。。
でも、家の中にはらむ「複雑さ」は、いつも確かにありました。
祖母が母の悪口をこそっと兄や電話で知人に言い、
母は母で実家にも言うにいえない不満を抱えていました。
はりぼてのような「幸福」。
ほんのちょっと、各自がバランスを失えば、一気に崩壊してしまうような感覚。
あ~まずい!という時に私は病気になっていました。
勿論、私は「なってやろう」とか思っていないんです。
熱ができる。
風邪をひく。
学校を行かない。
病院通いです。
となると、母も、祖母も、父も、私の「病気」に集中します。
爆発しそうになっていた各自の不満も、一時棚上げされるのです。
そして、母がちょっと幸せそうになるのです。
父も、その間はお酒も控えて、「愛娘」を心配しますから。
父と母の目標意識=ベクトルが一緒になる時でした。
医者に行ってくるからとタクシーで出て、診察の帰りに、近くのうどん屋さんで、母と一緒におうどんをすする。
その時は
「あ~外はいいね、ゆっくりできるわ」
と母の解放されたような顔がありました。
注射の痛みは残りながらも、母の笑顔が嬉しくて、
「このままいたいなあ」と思ったことを今も思い出します。
母も必死にあの家で生きてきました。
祖母や兄に、誠意をもって接していました。
立派な女性だと思います。
私には到底真似できない。
でも唯一してはいけないことがありました。
それは「父の悪口を子どもにいうこと」です。
「あんたのお父さんは、本当にどうしようもない。
私の父さんは(祖父ですが)優しくって、いい人だったのに。
こんな人(父)は人間のクズだ、こんな人と結婚したらいかんよ」
ごめんなさいね、お母さん。
そんな「父の娘」で。。。
私がいなければ、あなたは「こんな家」を出れたでしょう。
私がいなければ、もっと幸せになったでしょう。
愛されている、その反面、いつもとんでもない重みを感じていました。
そして、母が嫌う父のDNAを、私はまがいもなく受け継いでいる。
そのパラドックスに悩みます。苦しみます。
私の半身は父からできているのです。
父を愛せないことは、自分の半分を愛せないことです。
で、私は父を愛するというレッスンを、もっとドラマティックで臨死体験以上に苦いレッスンを思春期に受けることになります(苦笑)
母は父から愛情を受けたかったのだと思います。
そして、父も母から愛されたかった。
その愛の流れの循環が悪くなったとき、子どもは必死になります。
身を挺してでも、母を守ろうと、父を救おうと、二人に愛を取り戻させようとします。
勿論、意識的ではなく、潜在的にですが。
愛を相手にねだっていては、無い物ねだりかも知れません。
ほんの少しの真実の愛
「お帰りなさい」の微笑みでもいい。
温かいお茶の一杯でもいい。
ほんの少しの、愛の循環をまず「私からスタートする覚悟」が必要だと思います。
子どもの、心からの安心は夫婦の仲良し(夜の生活じゃないですよ)
を見ることです。
だって、子どもは夫婦の子なのですから。
そうすると、なんとか子どもは学校への行けるようになります。
家庭から飛び立てます。
なりました、私は。
苦しかったですけど。