記憶(36)  断片の貧困連鎖、その一家はいなくなって… | 自分史の旅 tarojie

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黄昏の落ち葉が似合う年齢になった。何かを残すこともない過ぎ去る日々、何かストーリーを書いておきたいと思いブログを始めたものの面倒だと思う日もある。忘れること思い出すことできなくなるかもしれない。まだ真黄色な楽園ではない。少しは色もある萎びれ枯れて行く。

記憶(36)  断片の貧困連鎖、その一家はいなくなって…

 

少し前のニュースだった、最後の現役選手であった元近鉄選手が引退した。もう球団が無いのだから私も元近鉄隠れファンと言っておこう。地元には南海バスが走っていた。それで南海ファンになり、南海がダイエーになって九州に行ってしまった。

 

南海からその隣の近鉄に鞍替えした単純な理由だ。積極的に球場まで足を運んだわけでもない。足を運ぶほど親が無関心で野球をしっているわけではない。だからプロ野球を見る機会もない。サンケイスポーツが我が家の取っている新聞だ。父親が競輪欄を見るために購読していたようなものだった。

 

スポーツ新聞の一面はやはり野球であった。幼いながらも何となく球団名は知っていた。小学校のグランドではソフトボールのように下手に投げて手をバットにして打ち一塁ベースに走るという野球モドキの遊びがあった。

 

当時は鶴岡監督、杉浦投手、野村捕手といった具合に知ってはいた。王、長嶋は有名であろうが家にはテレビがないから巨人に興味を示すことも無かった。運動音痴の私は球技を楽しんだが上手になる事も無かった。

 

学校から帰ると当時は6畳二間の借家住まいであった。その隣にも同様に借家住まいの一家があった。清さんと京子ちゃんの兄妹が住んでいた。彼らの父親が自転車に乗って飴、わらび餅を売り紙芝居をしていたような記憶が残る。

 

どちらも不遇な両家であった。その一家もいつの間にか引っ越していなくなった。その断片は何となく思い出した。苗字は何と言っていたであろうか。小説、映画は子供のころの記憶を鮮明に描いている。

 

実際には思い出したいが思い出しそうにない。精一杯断片の記憶はあの頃からの寂しい貧困の連鎖だけだ。小学6年までそこにいた。日本中が沸いていた東京オリンピックの年だった。

(2022年10月16日)