好調だった自分を思い出すことは「浄化」の一つかもしれないと気づいた件 | ブレない人生を作るための自分らしさを、言葉に。

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いつ、どこで、誰といても自分らしさを失わない、自分だけの人生を歩むための気づきをお届けしています。

今日も新しい世界を自分らしく生きるあなたへ。

 

 

 

こんにちは、廣瀬乃梨子です。

 

 

 

 

お気に入りのメルマガやブログを

紹介しますよ~とお話していたところ

あれなのですが、

 

 

 

今日はちょっときいていただきたいお話があって、

ブログを書いてみました。

 

 

 

ある意味自分に向けての

記録的なものかもしれませんが、

 

 

 

 

読んでくださった方の中でも

きっと何か気づきがあったり、

心当たりがあったりするかもしれないと思って

書いています。

 

 

 

 

で、何の話かと言うことですが・・・

 

 

 

それは、

 

 

 

 

 

好調だった自分を思い出すことは

「浄化」の一つかもしれないと気づいた件

 

 

 

 

 

です。

 

 

 

 

きっかけは、

二見輿玉神社でご祈祷いただいた

無垢塩祓(むくしおばらい)

 

 

 

伊勢神宮への参拝に際しては、

禊の霊場であるこちらの神社で、

「身を清め穢れを祓い神宮に参拝するのが古くからの吉例」

とのことで、今回初めてきちんとご祈祷いただきました。

 

 

 

ご祈祷の流れの中で

「太鼓大祓(たいこおおはらい)」

という時間があります。

 

 

 

ひたすら太鼓が連打されて、

大祓詞(おおはらいし)という

ご祈祷の言葉が奏上されるのですが・・・

 

 

 

 

これがなんとまあロック!

 

 

 

ロックで合ってるのかどうか

分かりませんけれど、

 

 

 

 

強烈なリズムで

魂を揺さぶられたという意味で

ロック!と感じたのです。

 

 

太鼓の音と振動に

身も心も揺さぶられて、

 

 

 

ある意味思考停止。

 

 

 

そうしたら、

 

 

自分の底に溜まっていた滓(おり)が

ドンドンドンドン!ドンドンドンドン!

 

 

 

という太鼓のリズムで

急き立てられるように

浮かび上がって、

 

 

 

涙と一緒に出ていったような、

そんな感覚でした。

 

 

 

「あ~スッキリした~!」

「さて、お伊勢さんで”いい気”もーらお!」

 

 

 

 

 

ではなく、

 

 

 

 

「やっといらんもん落とせたか~」

「やっと元の自分に戻れそう~」

「あれ?お伊勢さん行かなくてもいい・・・かも?」

 

 

 

 

という、すっごい満足感と言うか

充足感と言うか、

 

 

 

 

「もうこれで十分じゃん」

 

 

 

 

という感覚に包まれました。

もちろん、伊勢詣りもしましたけれども!)

 

 

 

 

それから1か月近く経っているのですが、

いまめっちゃ好調なんですね。

 

 

 

で、いまの自分なりに解釈している

「溜まっていた”滓(おり)”」の正体というのが、

 

 

 

 「足りないものに目を向けすぎていた故に生まれた

”もっともっと”という執着」だったのではないかと。

 

 

 

 

 

 

無垢塩祓で得た「もうこれで十分じゃん」の

感覚で思い出したのが、

 

 

 

大学時代に友人からしみじみと言われた

「のりりんはすべてを手に入れている」

という言葉。

(あだ名の方が気になったらごめんなさい(笑))

 

 

 

 

大学時代は本当に

もう自由気ままに青春を謳歌していました。

無理やり何か手に入れようとした記憶はなくって、

 

 

 

 

だから「ぜんぶ手に入れている」と言われたときに、

どちらかと言うと疑問符のようなものが

浮かんだ記憶が残っています。

 

 

 

「そうかな?普通やけどな~」

 

 

 

 

大学時代ですから、すべてといっても

恋人とかバイトととか学業とか、

比較的ライトなカテゴリーのものばかり。

 

 

 

 

社会人や家庭を持ってからの難しさや

責任感、”重さ”とは随分違います。

 

 

 

 

とはいえ、大学時代の自分の行動すべてに

共通していたのは、

 

 

 

 

「楽しい」

 

 

「やりたいことはなんとしてもやる」

 

 

「やりたいことのためなら、

準備も移動も気にならない」

 

 

 

何より、

 

 

 

「一般的にどうかじゃなくて、

自分がどうしたいか」

 

 

 

 

 

例えば受験生の家庭教師をしていたときに、

一緒に参考書を買いに行ったり、

一緒に志望校を見に行ったりしてたんですね。

 

 

 

 

 

私としては特別なことをしたと

思っていないのですが、

 

 

 

「え?そこまでするの?

時給も出ないのに」

って何人かから言われました。

 

 

 

 

確かにバイト代は出ませんが、

私にとっては、

「一緒に合格を目指す先生と生徒」の中に

含まれている普通の行動でした。

 

 

 

(おすすめした参考書でメインに取り上げられていた古文が

ドンピシャでセンター試験に出題というおまけ付き(笑))

 

 

 

 

他のバイトでいうと、

派遣された提携店舗の出入り口で

イオンカードの前身、「ジャスコカード」を

お勧めする仕事もしていました。

 

 

 

 

その時も、何度もお邪魔している

提携店舗では、店員さんの顔だけじゃなく、

お店の構造も商品の配置もわかっているので、

 

 

 

 

トイレや商品を探している

お客さんの対応をしたり、

お店のちょっとした片づけを手伝ったり、

セール日の告知を手伝ったりしていました。

 

(もちろん、自分で対応しきれないことは

店員さんに丁寧に引き継いでいました)

 

 

 

そんなある日、

 

 

 

 

「こんなにしてくれるのは、あなたぐらいよ」

 

 

 

とパートの女性にいっていただいた記憶があります。

 

 

 

「嬉しいな」と同時に、

 

 

ここでまた、

 

 

「私にとっては普通なんだけどな~」と。

 

 

 

 

勧めているこのクレジットカードは

このお店で使ってもらいたいものだから、

お客さんの求めに丁寧に対応して

これからもこのお店に来てもらわないと。

 

 

 

それに、何よりもお客さんからしたら

私はきっと店員さんに見える(笑)

 

 

 

しかも、人に尋ねるって結構勇気のいることだと

私なんかは思っているので、

そうやって声をかけてくれた人の要望には

なるべくすぐに対応してあげたい!!

 

 

 

 

それに、私はあくまで派遣されて

店舗の一部をお借りしているのだから、

 

邪魔にならないようにしたいし、

お役に立ってウエルカムな雰囲気になったら

自分のバイトもしやすいし( ̄▽ ̄)

 

 

 

他には、

学食で食事中に、なんかの用事で恋人から電話がかかってきて

最後に「電話ありがとね~!」と言って電話を切った時。

 

 

 

近くにいた友人二人に

「彼氏に電話ありがとうなんて言ったことない」

と驚かれました。

 

 

 

 

 

 

って、ここまで書いたのは、

何も自分はよくやっていたという

自慢話なのではなく、

 

 

 

 

 

「自然とやっていて人に驚かれたこと、褒められたこと」

 

 

 

の例を忘れないように挙げてみたのです。

 

 

 

よく耳にしませんか?

 

 

 

自分らしく生きるための次のような問いかけ。

 

 

 

「子どものころに自然とできていたことは?」

「その中で人に褒められたことは?」

 

 

 

 

これこそ

「一般的にどうとかじゃなく、自分がどうしたいか」

 

 

 

という、ある意味自分自身のピュアな価値観に基づいて設定された

目的を達するための行動だと思うんです。

 

 

 

 

それが、社会人になったり年を重ねて

自分の行動が数字や文書といった

目に見える形で評価されるようになったり、

 

 

 

 

価値観の全然違う人に出会って

そんな人と働かなくちゃいけなくなって

自分の価値観がゆらいだり、

 

 

 

仕事でもプライベートでも

損得勘定が働いたり、

 

 

 

 

将来への漠然とした

不安が出てきたり・・・

 

 

 

 

などなどで、

 

 

 

 

「自分がどうしたいかじゃなく

一般的にどうすべきか、

○○さんに認められるにはどうすべきか」

 

 

 

 

という出発点の行動がどんどん多くなる。

 

 

 

 

そうすると、いつしか

「一般的」あるいは「誰かの価値観」が

あたかも

「自分の価値観」のように

すり替わっていって、

 

 

 

 

他人の価値観にピタリと合う行動なんて

違う人間の自分にできるわけもないから、

 

 

 

毎日、「足りない、足りない」の違和感を抱えて生きていくことに

なっていってたんだなと・・・。

 


 

 

 

 

 

それが、明らかに「上司」とか「先輩」とか

ちょっと嫌なコト言ってきても

おかしくない立場の人の価値観だったら、

まだ抵抗したり、検分の余地はあるのだけど、

 

 

 

 

たとえば「恋人」だったり「配偶者」だったり、

「親」だったり「兄弟姉妹」だったり「友人」だったりと

自分にとって大切な人で、

また相手にとってもあなたが大切な人である場合は、

なかなかやっかい。

 

 

 

 

とまあ、こんな感じで

自分の価値観に基づいて

行動していた時代からいつしか、

 

 

 

 

誰かの価値観に合うように

行動することが当たり前になっていました。

 

 

 

(昨年会社勤めを卒業し、

自分は自由だ~と思っていたはずなのに)

 

 

 

 

とにかくいま私が次々と思い出したいのは、

 

 

 

 

「”自分はこれでええんや~”と満足して

調子が良かった時の自分は

どんな考えで、どんな行動をしていたのか」

 

 

 

 

「今もそれをしているか?」

 

 

 

 

「損得や一般論でやらなくなっていないか?」

 

 

 

ということです。

 

 

 

ここでいう「行動」にはきっと、

「やっていなかったのにやらざるを得なくなった

(自分にとって)しんどいこと」

 

 

 

というのもあるかもしれません。

 

 

 

 

で、この自分に満足していた時の

感覚を呼び起こすことによって

 

 

 

 

「自分に合わない価値観」

 

 

「足りないものに目を向けすぎていた故に

生まれた”もっともっと”という執着」

 

 

 

が手放されていくような感覚が少なくとも私の中では生じています。

 

 

 

これも「浄化」のひとつと感じています。

 

 

 

 

 

ここまでお読みいただいてありがとうございます。

思うがままに書いたのでちょっと分かりづらいところも

あったかもしれません💦

 

 

 

 

ただ、わたしが

「これも足りないあれも足りない」

「これもやらなきゃあれもやらなきゃ」から

するするっと脱却できそうな

考え方や問いかけを記録しておきたいことと、

 

 

 

 

もしこれがどなかたかをインスパイアする

ものになればと思い、

ブログとしてしたためております^^

 

 

 

今日も一日好調でした。

ありがとうございます。

 

 

 

廣瀬乃梨子