2014年、大切な人、大切な時間だけを優先した一年でした。
2015年、最愛の母が逝きました。

2013年11月にすい臓がんが見つかり、放射線治療で一時は改善したものの、昨年6月に抗がん剤を投与して以降は打つ手がなくなってしまい、少しずつ弱っていきました。

亡くなる数日前の別れ際、両手で母の頬を挟んだら、愛らしい笑顔でなぜか「行ってらっしゃい!」と云われたので、「行ってきます」と笑いました。それが最期の言葉に。

料理や子育てなど本来母親から学ぶべきことを私はあまり教わってこなかったけれど、母はその生き方を通して大切なことを教えてくれたように思います。

病気になったことへの不安や悔しさ、弱音を一度も口にすることなく、毎日「ありがとう」という言葉だけを繰り返した母。自宅で7年間祖父の介護を務めた母。ご近所のお友達にごはんを振舞っていた母。社協や調停委員を任され、還暦を過ぎてもなお学び、成長し続けた母。

自分の母親だけれど、いつも人に尽くし、一生懸命で本当に愛らしい人だったと思います。

mio

---母が病気になってから亡くなるまでのTwitterログ---

15.01.28
Facebookに知らない人からメッセージがきた、と思ったら、20年前に北海道で母に世話になったという方でした。よくごはんに呼んでもらったと。お母さん、本当にすごいなぁ。娘の私にまで連絡してくれるほど感謝されているんだな。
人口5,000人ほどの町なのに、母のお参りには500人近い人たちが来てくれました。若いせいもあるけれど、父も驚いていました。

15.01.26
東京に戻る前、遺影の前にシャボン玉を置いて「行ってきます」と手を合わせて家を出てきた。「行ってきます」と「行ってらっしゃい」は母と子の愛情すべてが込められている言葉だと思いました。
母の最期には間に合いませんでした。本当は苦しむ姿を見たくなかったのかもしれない。最期を見ていないからよけいに、東京に戻るとなおさら、母を失ったという現実があまりぴんとこない。話したいときに、あ、もういないんだっけ、と思う。

15.01.13
別れ際、母の頬を両手で挟んだら、なぜか舌を出しながら笑って「行ってらっしゃい!」と言われた。もう会えないかもしれない。もしかしたら。

15.01.11
生きていると生きていないはたぶんとても違う。お母さんはこれからどこに行くんだろう。私がお母さんにした話はどこに行くんだろう。
隣の病室のおじいさんが亡くなったらしいと気がついて、閉じた母の目から涙が滲んだ。手を握ったら、私の方が泣き出してしまうと思ってできなかったけど、母は悔しいのだとわかった。もっと生きたいんだって。

15.01.03
話しているときの母は変わらず生命力がありすぎて、私たちの前からいなくなるなんて、不自然にすら思えます。

15.01.01
「じいちゃん、ばあちゃん、ご先祖様、助けて下さい」そう手を合わせていた母。じいちゃんばあちゃんは義理の両親のことらしい。食べさせてもらった時間は実の両親よりも長いからと。年月は絆を生むんだなぁ

15.01.01
母は生きようとしているんだ、と気がついた。もうなにを考えているのかわからない、と思っていたけれど。動かなくなった足をリハビリしようとしてる。

14.12.29
母が毎日いちばん口にする言葉は「ありがとう」です。

14.12.25
離れて暮らしているかぎり、親に会える回数はもう数えるほどしかないと昔から意識していたし、なぜか数年前から母から届くメモや手紙を保管するようになってた。“私”は時間が残り少ないことを知っていたのかもしれない。

14.12.23
母を不安にさせる言葉すべてから守ってあげたかったし、そばにいてあげたかった。母は結局、いまも生きるという姿勢でいるし、病気に対する悔しさや文句、弱音を一度も吐いていない。むしろ自分は幸せだし、守られていると繰り返し云う。

14.12.19
母はもう寝てばかりであまり話ができない。でも眠れるのは安らかな証拠。「右手はゆきちゃん、左手はけんちゃん(弟)だから」と言っていた。気持ちはちゃんと届いてた。

14.12.13
お母さんが病気なのに、どうしてここで仕事してるんだろう。と最近思う。と父にメールしたら、思いがけない返信がきた。
「お母さんが好きな本に、置かれた場所で咲きなさい。というような本があったと思うが、イメージが重なる。現職中に妻をガンでなくした局長がいました。家事やっていると言って手を見せてくれました。荒れてました。仕事を辞めることなく、奥さんを見送りました。しかし、気落ちしたのか?定年を待たず退職しました。多分奥さんは仕事は続けてほしいと思っていた筈なので、いい選択だったと思う。お母さんも同じだと確信します。仕事はきちんとやりましょう。有紀のようなジレンマをかかえた人は少なくない。そういう人のほとんどは耐えて生き抜いていると思います。」

14.12.12
背中の痛みで母が携帯を使えなくなった。もう言葉と声も届けられない。

14.12.07
昨夜、母が高熱を出して緊急入院した。親が救急車で運ばれることにはもう驚かなくなった。初めて腹水を抜く。
いちばんやるせないことは、お母さんが不安になってるとわかっているのに、そばに居てあげられないこと。お母さんの右手はわたし、左手はけんちゃんがいつも繋いでいるからね。覚えていてね。

14.12.06
母を助ける方法はあったかもしれないと思う。放射線治療が終わったとき、もう膵臓への治療はできないと聞いていれば、すぐに手術を検討していたはずだ。でも、私たちは怖くて先生にきちんとそれを聞き出せなかったし、病気のことをもっと勉強していれば、ほかに正しい判断があったかもしれない。

14.12.02
お母さんにメールするネタがなくなったので、ただ、おはよう大好き。と送った。

14.11.24
「こんなことをしてもらうようになるなんて思わなかった」とか、「手が触れていると安心する」とか、父と私がごはんを食べていると「お父さん、娘がいて良かったね、と思う」とか、いつもとちがうお母さんだった。顔をしかめていたし、以前より余裕がなさそうだった。

14.11.19
実家にいるときの階下から母の呼ぶ声や休日にかかってくる電話、たくさん送られてくるおかずとか、昔はとても面倒なものだったけれど、今はそのどれもが大切。いつかの時には一緒にいたいけど、どうしたらいいだろうかな。

14.11.01
実家でごはんを作っていたら、指を切ってしまい、母が絆創膏を貼ってくれた。お母さんが何かをしてくれる、ということは当たり前だけれど、私にはかけがえのない瞬間。 http://instagram.com/p/u27sEoidI7/

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14.10.25
退院した母から、久し振りに30分ほどの長電話。こんなに話せるくらい元気になったことが嬉しい。今朝、すごく嬉しいメールをもらったのと報告され、話を聞いて私まで感動して号泣。いのちが弱くなっても、母は自分の力でキラキラ輝いた時間を過ごしてる。
地元で社協委員を8年間務めている母は、今春にもまた委員を再任された。でも病気で役割を果たせないことに遠慮して退任を申し出たところ、こう言われたそう。「会議に出ていなくても、今まで頑張っていたあなたの存在感やオーラがそこにあって、新委員たちに影響を与えているから」と。

14.10.14
食事ができなくなり、自宅点滴で退院することになった母。スープは飲んでも大丈夫、と先生に言われ、「帰ったら、お父さんが作ったみそ汁を飲む。すき焼きの時は汁を飲むから」と愛らしく話していた。できないことよりも、できることを大切にする母。

14.09.22
お母さんは不思議だ。どんどん弱っているのに、相変わらず話していると生命力に溢れているし元気になるから、と迷いなく口にする。私が覚悟していたがん患者の姿とはちがってる。

14.09.21
母の若い頃の写真が出てきた。 http://instagram.com/p/tLA1EtidOw/

photo

14.09.18
「ありがとうって言葉はすごいと思う。一言にたくさんの意味が込められる」
つい数日前にも、笑顔で母らしい話をしていた。魚のさばきかた、共同生活の心得、今でさえ母から教わることはたくさん。

14.08.28
母からのメールは前向きさと謙虚さ、励ましに満ちていて、とても末期ガン患者とは思えません。長年苦労していた祖父母の介護も、周囲はそのせいでガンになったのでは、と誰もが思っているのに、母の口からは祖父母への感謝しか聞くことはない。病気で身体が変わってしまった今でも、変わることはない。

14.08.26
実家でお風呂に入ってる時や寝室にいる時、時折すごく楽しそうな両親の笑い声が聞こえてきます。母はそこにいるだけでいいから、いつまでも生きていてほしい。

14.08.19
母は今や家事ができないし、父は料理ができない。けれど、ご近所や友達や親戚から、実家には毎日入れ替わりでおかずが届く。これまで母がそうしてきたからこそ、周りが両親を助けてくれるのだと思う。ご近所付き合いっていいなあ、と初めて温かく感じました。

14.08.07
私の動揺を察した叔父母が父の病院に付き添い、母を自宅に引き取ってくれて、「パパたちがいるから、心配しないで」と電話をくれ、糸が切れたように涙が。叔父母も若くはないのに。

14.08.07
私たち家族は医師にどんなことを云われても、お母さんが少しでも良くなるように、助かる可能性を信じています。父は母のために家を改装したり、食事の支度やマッサージやら、本当に頑張っていて、それが身体の負担になったのかもしれないけれど。

14.08.07
母の前で号泣したのは、両親が病気になって以来、初めて。両親の前では泣かないようにしていたし、ただお母さんに幸せを感じてもらうことだけを考えていたから。でも、父が倒れたことで、心がこわれたのかも。ここ数日は母の方から心配そうなメールが届きます(笑)

14.08.06
母の余命をわざわざ伝えようとしてきたり、私が母のそばに行こうとすることに反対したり、医師や親戚や友人はきっと親切だと信じて助言してくるのだと思うけれど、私や家族はただ傷ついてきました。私たちはずっと知っているし、考えているから。思いやりはむずかしいもの。

14.08.04
母が体調を持ち直して喜んでいた矢先に、父が倒れて救急搬送されました。まるで追い詰められていくゲームみたい。でも、両親は助けてくれる人が多いだけ、恵まれています。二人の人徳のおかげかな。

14.07.29
お父さんが頑張っていました。退院した母のために階段に手すりを付けたり、食事を作ったり洗い物や洗濯をしたり、マッサージしたり、以前はまるで家事をしなかったのに別人のよう。母のために一生懸命な父を見ていると、これもまた母が病気になった意味なのかもしれないと思います。

14.07.23
私が好きなお母さんの話。サッカー部をうちに泊めたこと。雨のキャンプ場から知らない人を連れて帰ってきたこと。病気のご近所さんの御節を毎年作っていること。私の地元の同級生の嫁姑の悩みを聞いていること。アラスカから来た女の子たちがうちで休んでいたこと。

14.07.15
「残された時間をどう過ごすか、考えてください」とついに医師に云われ、母が涙ぐんでいたそう。医者はおせっかいだ。
落ち込んでいる母に精一杯のメッセージを送ったら、「明日の手術がうまくいくように祈っていました。こぴっとがんばります!」と返信がきた。こんなときでさえ、前向きで元気をくれる母に涙が止まりませんでした。

14.07.07
離乳食?の試作をしてみた。母の好きなジャガイモの煮付けとカボチャのペースト、りんご煮。煮付けは味を薄くして、水分を足した方がいいかな。見た目ももっと美味しそうじゃないとなぁ http://instagram.com/p/qHUQ8OidPB/

food

14.06.11
明日、病院の付き添いで札幌に。重い話になる前提だから行くのだけれど、ただお母さんに会えるのが嬉しくて、ウキウキしてる。

14.06.04
どうして患者本人の気持ちに寄り添えないのかな。いちばん怖いのは本人なのに。そんなにすぐに気持ちは追いつかないよ。父も医師も、もっと強くなってほしい。お母さんのために。

14.05.11
どうか来年も、お母さんありがとう、と云えますように。と思いながら花を贈る、初めての母の日。

14.05.08
私のお母さんであるまえに、お母さんのいのちはお母さん自身のものだ。

14.05.05
母はさらに痩せていてドキリとしたけれど、元気だし体調もとても良さそうで一安心。体力が落ちて疲れやすいのは病み上がりだからまだ時間がかかるのだと。たぶん母の顔や声を見れば、家族には病状がわかるような気がします。今はとても生命力があり健やか。

14.04.01
お母さんに会いたい。どうして大切な人なのに離れているんだろう。

14.03.29
病気にはやっぱりなにかしら前兆があるのかもしれない。父も母もずっと元気だったけれど、思い返すと時々胸やおなかが痛むことがあったと話していました。

14.03.01
お母さんの声が大きいし、その勢いに私がちょっと負けちゃうくらいだ。私はもう完全に必要ないみたい(笑)

14.02.26
明日、母の3ヶ月ぶりのPET検査。がんは消えている気がして、そう信じてるけど。緊張する。

14.02.24
でも、いちばん近くにいるお父さんがお母さんの病気をきちんと把握していないと、助けられないのに。がんばってよ。

14.02.24
先週末は鹿児島に行かなかったけれど、電話で長く話していても、母は息継ぎをしなかったし、声色が健康な人のそれなので、たぶんガンは消えているんだろう。もうすぐ北海道に帰れるかもしれない。

14.02.14
初診の日、植松先生は紹介状より先に母の顔を見たし、前日に父が倒れたことを心配してくれた。胆のう&胆管炎で管を通したままの母を見て、症状が落ち着くまで放射線治療は延期しましょう、と云ってくれた。言葉が少ないから、よくわからなかったけど、人間味のある先生なのだと気がつきました。

14.02.10
お母さんが朝ゴハンを作ってくれる、幸せ。

14.02.04
腫瘍マーカーの数値が正常値に戻ったそう。母のガンが消えているかもしれないって!! ワァ───ヽ(*゜∀゜*)ノ───イ 月末に最終のPET検査。

14.01.30
ただ、あんなにも愛らしい母に病気で辛い思いをさせることがかわいそうで、とにかく助けたい。つらい思いをさせるくらいなら、ほかの病気の方が良かったんじゃないかと思ってしまうくらい。

4.01.30
母とは、ソウルメイトのような関係です。誰にも云えないようなニュアンスの感情や悩みも、母には話すし、母もたぶんそう。ここ数年、母も友人に恵まれて、母の心の成長を感じていました。

14.01.30
いつも不安が少し勝ってしまうので、意識して口角をあげて笑顔になるようにしてるけれど、お母さんが治ると信じているんだから、家族は一緒に信じてあげないと嘘だと思う。

14.01.08
朝から母の容体が悪化し、慌ただしい一日でした。でも続いていた高熱の原因がわかり、処置できたので一安心。母がああ言ったこうしたとか、看病も治療も病院任せのダメ父についにキレて、半ば叱りとばし、具体的な指示をあれこれ出したら、目が覚めたのか、いつものまともな父に戻っていました(笑

14.01.07
母の病気を前にショックを受け、判断力を失っているのか、父の云うことやることはなんだか頼りにならないことばかり。数十年の社会経験もどこへやら。こういうとき、男親は役に立たないよ!と同僚に忠告されていたけどその通りでした(笑)。まあそんなもんだと思うけど、せめて元気でいてくれー!

13.12.17
お父さんが急性心筋梗塞で倒れてから3日後、母の面会が許されたので、初めてICUに母を連れて行った。お父さんは、お母さんの元気そうな顔を見た瞬間、なんともいえない嬉しそうな顔をしていた。と弟が言ってた(笑)

13.12.16
いちばん切なかったのは、鹿児島に発つ前日。一日だけ実家に帰った夜だった。膵炎を起こしていたから、母は一週間以上食べていなかったし、父と私はなんとか無事に母を鹿児島に連れていきたいと神経質になってた。
にも関わらず、次から次へと親戚や近所の人が見舞いに訪れて、みんな帰っ、と心の中では叫び続けて。挙句、夜中に父と口論になり、母を悲しませた。すべては母を想うあまりのことで。その翌日、お父さんも倒れた。

13.12.07
家族がガンになった時の気持ちは複雑だ。助けるために病気やその治療法の情報を集めるべきだけれど、現実に直面したくない葛藤の中にいる。父は母を失うかもしれない恐怖で、まったく余裕がなく、私は毎晩泣きながら病院のことを調べていました。


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