数年前から、友人に「あなたはたぶんHSPだと思う」といわれていて、コロナの影響もあり、周囲の心の問題に直面する機会が増えてきたので、自分もきちんと向き合ってみようと思い、ご自身もHSPだというカウンセラーの方にお会いしてきました。

結果、おそらくHSP(Highly Sensitive Person)というより、HSE(Highly Sensitive Extraordinary)という、外向型HSPだろうということに。

 

※HSPの基本的な特徴はこちら。

1. Depth 物事を深く処理する

2. OverStimulation 過剰に刺激を受けやすい

3. Empathy & Emotional 全体的に感情の反応が強く、とくに共感力が高い

4. Subtlety 些細な刺激を察知する(第六感が強い?)

 

感受性の強さを自覚するようになったのは、東日本大震災のとき。知人友人に被害を受けた人はいなかったにもかかわらず、報道を見続けていただけで、2週間頭痛と吐き気がとまらず、仕事が手につかなくなり、それから1年間ニュースをみることを止めていました。熊本地震の現場支援に入ったときも、被害状況や被災した人たちの気持ちを受け止め始めると、身体が動かなくなってしまうと思い、心に蓋をした状態で2か月間活動していました。そういえば、北海道の故郷が竜巻に襲われたときも胃炎になったな。自分は被災していないのに。

 

そんなふうに感受性の強さは自覚していて、対処法もおおよそ身についてきているのですが、HSPの傾向である「雑談が苦手(意味のある話や深い話が好き」「一度にたくさんのことを頼まれるのが嫌」「空腹になると集中できない」など、ちょっとしたことに「わかりますわかります」と共感してもらえて、嬉しかったのは初めての経験。

 

ここ数年、人に会うことに楽しさを感じられず、無気力になってきているのか交友関係が狭くなっていることについては、良くないことではないので、「元に戻ろうと思わなくていい」「自然やご縁に任せて」とアドバイスされ、そういうもんかなと安心しました。

 

平野啓一郎さんの『個人から分人へ』という著書があり、その中で、「人は個人(個性)があるのではなく、他者によって引き出される分人がある」のだと書かれているそうです。私は5年前に母を失っただけではなく、失ったのは母によって引き出されていた自分でもあり、その喪失が心に影響しているのだと最近考えるようになりました。

 

そして、ふと気が付いたのは、2年前はちょうどシェアハウスを出た時期でもあり、自分自身が変化した時期と重なっていると発見したこと。もともと母の病気がわかったあと、母を失う悲しさを紛らわせたくて、移り住んだシェアハウスだったのだけれど、誰かと一緒に暮らしていることで、埋められている部分があったんだなあと。あまり人に会おうと思わない一方で、誰かと一緒にいることで心が癒されていた、なんて人って複雑でやっかいだな。

昨年春、北海道へ最後の帰省に向かう途中、タクシーの運転手さんにもらった四つ葉のクローバー。奥さんがクローバーを探すのが得意で、お客さんにこうしてプレゼントしているのだと話していました。母の愛読書だった「置かれた場所で咲きなさい」にはさみ、しおり代わりに使っています。 この本をずっと読み返したかったのだけれど、思えば、クローバーも本もまるで母の仕業のよう。本をほとんど読まなかった母なのに、この本には私が欲しい言葉がたくさん書かれていて、お母さんが言いたかったことを本にして届けてくれているみたい。 昔から私の悩み事は、誰かのことや何かではなくて、それに対して自分がどうあるかで、成長したりまた元に戻ったりでなかなか楽にはならない。 忙しさがハードルであることはたぶんたしかだけれど、大きな流れでみれば守られていることはまちがいないので、なんとか健やかにやっていける方法を見つけよう。 #四つ葉のクローバー #タクシー #北海道 #帰省 #渡辺和子 #置かれた場所で咲きなさい #clover #bookmark #book #mother

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「Bloom where God has planted you.

咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすること。咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと下ろしましょう。」

 

『置かれた場所で咲きなさい』の著者である渡辺和子さんが先日亡くなりました。この本は母の愛読書で、写真と共に部屋に飾ってあったので、久し振りに読み返してみました。すると、以前はあまりぴんとこなかったけれど、今の私には必要な言葉がたくさん書かれていました。もうすぐ2年になるけれど、母が今もなお私に大切なことを伝えてくれているような気がして不思議と嬉しい気持ちに。

 

昨年は社会的な仕事に取り組みたい、という目標に近づくために転職。初めて被災地での活動にも関わることができました。でも、その代り、新しい仕事と熊本のことで頭がいっぱいになり、余裕のない一年でした。。。出会いっぱなしではなく、今年は出会いを育てる一年にできますように。

「料理を好きになる」
これを今年の抱負にして、料理教室に通い始めたのは母の存在がありました。

ものすごく大きい10号土鍋を買って驚かれたけど、実家にはこのくらいの土鍋がいくつもありました。身近に親戚も多かったし、母はよく若い人たちをうちに招いてごはんを振舞っていて、いつも帰省すると「お母さん、ただいまー」といいながら、私と同世代の人たちが家に遊びに来ていました。

ごはん

いま思えば、母にとってごはんは人とつながる手段だったんだな、と思います。とくに凝ったメニューを作るわけでもなくいつも普通のごはんでした。こうしてみんなにごはんを振舞うことで、私や弟も困った時、周囲の人に助けてもらえるように、と時々話していました。

ごはんはすごい。ごはんはすごい。
(ここ重要なので繰り返します、笑)

波長の合う友人たちと温かいごはんでおなかを満たすと、やさしくて幸せな気持ちになる。料理がそれほど上手じゃなくても、鍋を囲んでいるだけでいいんだなー。一年が過ぎて、ちょうどそんなことに気がつけたクリスマスでした。

メリークリスマス~★
「人は亡くなってからの方がコミュニケーションがとれる。」

家族を大事にしていると云われるけれど、母が亡くなってから一度も帰っていないし、母の遺影はずっと開けてすらいなかったし、この一年どこか母の不在を直視していなかったように思います。

先日仕事でお世話になっている方に、「人は亡くなってからの方が、コミュニケーションがとれるんです。お母さんにどんどん相談した方が親孝行ですよ。お母さんはもう少しあなたをサポートしたい、家族でいたいと思っています」と云われてみるみる泪が。この言葉がずっと聞きたかったのだ、と思いました。
初めての仕事旅行で、ロケーションコーディネーターになる旅に行ってきました!すっごい楽しかったー!!

土曜の朝9時に集合して18時過ぎまで、びっくりするくらい丁寧にお話を聞かせていただき、お仕事に同行させていただきました。仕事旅行ってこんなに充実してるんだーと素でビックリしました。

お世話になったのは、主にCM撮影のロケを手配するグッディジャパンさん。
大和ハウスやトヨタ、ジョージアなどこれまで見ていたCMの数々をこの方たちが手配されていたことを知り、すぐに親近感が湧きました。

案内していただいた女性の方はなんと仕事旅行をきっかけにグッディに入社、10名ほどの会社ですが他にもそういう方がいるそう。紅茶をいただきながらお仕事の説明をしていただいた後は、現在手掛けているCMのロケハンに同行させていただきました。

ロケ手配のノウハウを学ばせてもらいたいと思って参加した仕事旅行でしたが、正直こんなに教えてもらえるなんて!と驚いてしまうほど、詳しくお仕事のノウハウを教えていただきました。
ロケーションコーディネーターというのは「ロケハンのプロ」。ヌケを意識したアングルの切り方だったり、方位磁針まで持参して光の量を確認されていたり、行き届いた気遣いの数々まで、本当に勉強になりました!

そして、お二人ともとても穏やかで柔らかな雰囲気と、仲が良さそうな社風が本当に素敵でした。仕事旅行のようなサービスがなければ、体験できないことや出会えない方たち。次はどの旅に行こうかな。

仕事旅行
http://www.shigoto-ryokou.com/

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ヌメ皮を花びらの形に切り、藍や草木染めしたアクセサリー、veriteco。

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今日まで出店していたヒカリエにお邪魔してきました。
昨年9月にも見に行っていたことをお店の方が覚えていてくださって、「すごく欲しいんですけど、ピアスできないんです」と話したところ、「3分くらいでイヤリングの金具に替えられますよ」とのこと。左右長さもデザインもちがうアシンメトリーもかわいい。\14,000。本格的なジュエリーよりもリーズナブルなのでプレゼントにもいいかも。

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月島にあるショップは2月中はお休み。3月25日からは松屋銀座にも期間限定で出店するそうです。

veriteco 花と手仕事のアトリエ
http://veriteco.com/

2014年、大切な人、大切な時間だけを優先した一年でした。
2015年、最愛の母が逝きました。

2013年11月にすい臓がんが見つかり、放射線治療で一時は改善したものの、昨年6月に抗がん剤を投与して以降は打つ手がなくなってしまい、少しずつ弱っていきました。

亡くなる数日前の別れ際、両手で母の頬を挟んだら、愛らしい笑顔でなぜか「行ってらっしゃい!」と云われたので、「行ってきます」と笑いました。それが最期の言葉に。

料理や子育てなど本来母親から学ぶべきことを私はあまり教わってこなかったけれど、母はその生き方を通して大切なことを教えてくれたように思います。

病気になったことへの不安や悔しさ、弱音を一度も口にすることなく、毎日「ありがとう」という言葉だけを繰り返した母。自宅で7年間祖父の介護を務めた母。ご近所のお友達にごはんを振舞っていた母。社協や調停委員を任され、還暦を過ぎてもなお学び、成長し続けた母。

自分の母親だけれど、いつも人に尽くし、一生懸命で本当に愛らしい人だったと思います。

mio

---母が病気になってから亡くなるまでのTwitterログ---

15.01.28
Facebookに知らない人からメッセージがきた、と思ったら、20年前に北海道で母に世話になったという方でした。よくごはんに呼んでもらったと。お母さん、本当にすごいなぁ。娘の私にまで連絡してくれるほど感謝されているんだな。
人口5,000人ほどの町なのに、母のお参りには500人近い人たちが来てくれました。若いせいもあるけれど、父も驚いていました。

15.01.26
東京に戻る前、遺影の前にシャボン玉を置いて「行ってきます」と手を合わせて家を出てきた。「行ってきます」と「行ってらっしゃい」は母と子の愛情すべてが込められている言葉だと思いました。
母の最期には間に合いませんでした。本当は苦しむ姿を見たくなかったのかもしれない。最期を見ていないからよけいに、東京に戻るとなおさら、母を失ったという現実があまりぴんとこない。話したいときに、あ、もういないんだっけ、と思う。

15.01.13
別れ際、母の頬を両手で挟んだら、なぜか舌を出しながら笑って「行ってらっしゃい!」と言われた。もう会えないかもしれない。もしかしたら。

15.01.11
生きていると生きていないはたぶんとても違う。お母さんはこれからどこに行くんだろう。私がお母さんにした話はどこに行くんだろう。
隣の病室のおじいさんが亡くなったらしいと気がついて、閉じた母の目から涙が滲んだ。手を握ったら、私の方が泣き出してしまうと思ってできなかったけど、母は悔しいのだとわかった。もっと生きたいんだって。

15.01.03
話しているときの母は変わらず生命力がありすぎて、私たちの前からいなくなるなんて、不自然にすら思えます。

15.01.01
「じいちゃん、ばあちゃん、ご先祖様、助けて下さい」そう手を合わせていた母。じいちゃんばあちゃんは義理の両親のことらしい。食べさせてもらった時間は実の両親よりも長いからと。年月は絆を生むんだなぁ

15.01.01
母は生きようとしているんだ、と気がついた。もうなにを考えているのかわからない、と思っていたけれど。動かなくなった足をリハビリしようとしてる。

14.12.29
母が毎日いちばん口にする言葉は「ありがとう」です。

14.12.25
離れて暮らしているかぎり、親に会える回数はもう数えるほどしかないと昔から意識していたし、なぜか数年前から母から届くメモや手紙を保管するようになってた。“私”は時間が残り少ないことを知っていたのかもしれない。

14.12.23
母を不安にさせる言葉すべてから守ってあげたかったし、そばにいてあげたかった。母は結局、いまも生きるという姿勢でいるし、病気に対する悔しさや文句、弱音を一度も吐いていない。むしろ自分は幸せだし、守られていると繰り返し云う。

14.12.19
母はもう寝てばかりであまり話ができない。でも眠れるのは安らかな証拠。「右手はゆきちゃん、左手はけんちゃん(弟)だから」と言っていた。気持ちはちゃんと届いてた。

14.12.13
お母さんが病気なのに、どうしてここで仕事してるんだろう。と最近思う。と父にメールしたら、思いがけない返信がきた。
「お母さんが好きな本に、置かれた場所で咲きなさい。というような本があったと思うが、イメージが重なる。現職中に妻をガンでなくした局長がいました。家事やっていると言って手を見せてくれました。荒れてました。仕事を辞めることなく、奥さんを見送りました。しかし、気落ちしたのか?定年を待たず退職しました。多分奥さんは仕事は続けてほしいと思っていた筈なので、いい選択だったと思う。お母さんも同じだと確信します。仕事はきちんとやりましょう。有紀のようなジレンマをかかえた人は少なくない。そういう人のほとんどは耐えて生き抜いていると思います。」

14.12.12
背中の痛みで母が携帯を使えなくなった。もう言葉と声も届けられない。

14.12.07
昨夜、母が高熱を出して緊急入院した。親が救急車で運ばれることにはもう驚かなくなった。初めて腹水を抜く。
いちばんやるせないことは、お母さんが不安になってるとわかっているのに、そばに居てあげられないこと。お母さんの右手はわたし、左手はけんちゃんがいつも繋いでいるからね。覚えていてね。

14.12.06
母を助ける方法はあったかもしれないと思う。放射線治療が終わったとき、もう膵臓への治療はできないと聞いていれば、すぐに手術を検討していたはずだ。でも、私たちは怖くて先生にきちんとそれを聞き出せなかったし、病気のことをもっと勉強していれば、ほかに正しい判断があったかもしれない。

14.12.02
お母さんにメールするネタがなくなったので、ただ、おはよう大好き。と送った。

14.11.24
「こんなことをしてもらうようになるなんて思わなかった」とか、「手が触れていると安心する」とか、父と私がごはんを食べていると「お父さん、娘がいて良かったね、と思う」とか、いつもとちがうお母さんだった。顔をしかめていたし、以前より余裕がなさそうだった。

14.11.19
実家にいるときの階下から母の呼ぶ声や休日にかかってくる電話、たくさん送られてくるおかずとか、昔はとても面倒なものだったけれど、今はそのどれもが大切。いつかの時には一緒にいたいけど、どうしたらいいだろうかな。

14.11.01
実家でごはんを作っていたら、指を切ってしまい、母が絆創膏を貼ってくれた。お母さんが何かをしてくれる、ということは当たり前だけれど、私にはかけがえのない瞬間。 http://instagram.com/p/u27sEoidI7/

hand

14.10.25
退院した母から、久し振りに30分ほどの長電話。こんなに話せるくらい元気になったことが嬉しい。今朝、すごく嬉しいメールをもらったのと報告され、話を聞いて私まで感動して号泣。いのちが弱くなっても、母は自分の力でキラキラ輝いた時間を過ごしてる。
地元で社協委員を8年間務めている母は、今春にもまた委員を再任された。でも病気で役割を果たせないことに遠慮して退任を申し出たところ、こう言われたそう。「会議に出ていなくても、今まで頑張っていたあなたの存在感やオーラがそこにあって、新委員たちに影響を与えているから」と。

14.10.14
食事ができなくなり、自宅点滴で退院することになった母。スープは飲んでも大丈夫、と先生に言われ、「帰ったら、お父さんが作ったみそ汁を飲む。すき焼きの時は汁を飲むから」と愛らしく話していた。できないことよりも、できることを大切にする母。

14.09.22
お母さんは不思議だ。どんどん弱っているのに、相変わらず話していると生命力に溢れているし元気になるから、と迷いなく口にする。私が覚悟していたがん患者の姿とはちがってる。

14.09.21
母の若い頃の写真が出てきた。 http://instagram.com/p/tLA1EtidOw/

photo

14.09.18
「ありがとうって言葉はすごいと思う。一言にたくさんの意味が込められる」
つい数日前にも、笑顔で母らしい話をしていた。魚のさばきかた、共同生活の心得、今でさえ母から教わることはたくさん。

14.08.28
母からのメールは前向きさと謙虚さ、励ましに満ちていて、とても末期ガン患者とは思えません。長年苦労していた祖父母の介護も、周囲はそのせいでガンになったのでは、と誰もが思っているのに、母の口からは祖父母への感謝しか聞くことはない。病気で身体が変わってしまった今でも、変わることはない。

14.08.26
実家でお風呂に入ってる時や寝室にいる時、時折すごく楽しそうな両親の笑い声が聞こえてきます。母はそこにいるだけでいいから、いつまでも生きていてほしい。

14.08.19
母は今や家事ができないし、父は料理ができない。けれど、ご近所や友達や親戚から、実家には毎日入れ替わりでおかずが届く。これまで母がそうしてきたからこそ、周りが両親を助けてくれるのだと思う。ご近所付き合いっていいなあ、と初めて温かく感じました。

14.08.07
私の動揺を察した叔父母が父の病院に付き添い、母を自宅に引き取ってくれて、「パパたちがいるから、心配しないで」と電話をくれ、糸が切れたように涙が。叔父母も若くはないのに。

14.08.07
私たち家族は医師にどんなことを云われても、お母さんが少しでも良くなるように、助かる可能性を信じています。父は母のために家を改装したり、食事の支度やマッサージやら、本当に頑張っていて、それが身体の負担になったのかもしれないけれど。

14.08.07
母の前で号泣したのは、両親が病気になって以来、初めて。両親の前では泣かないようにしていたし、ただお母さんに幸せを感じてもらうことだけを考えていたから。でも、父が倒れたことで、心がこわれたのかも。ここ数日は母の方から心配そうなメールが届きます(笑)

14.08.06
母の余命をわざわざ伝えようとしてきたり、私が母のそばに行こうとすることに反対したり、医師や親戚や友人はきっと親切だと信じて助言してくるのだと思うけれど、私や家族はただ傷ついてきました。私たちはずっと知っているし、考えているから。思いやりはむずかしいもの。

14.08.04
母が体調を持ち直して喜んでいた矢先に、父が倒れて救急搬送されました。まるで追い詰められていくゲームみたい。でも、両親は助けてくれる人が多いだけ、恵まれています。二人の人徳のおかげかな。

14.07.29
お父さんが頑張っていました。退院した母のために階段に手すりを付けたり、食事を作ったり洗い物や洗濯をしたり、マッサージしたり、以前はまるで家事をしなかったのに別人のよう。母のために一生懸命な父を見ていると、これもまた母が病気になった意味なのかもしれないと思います。

14.07.23
私が好きなお母さんの話。サッカー部をうちに泊めたこと。雨のキャンプ場から知らない人を連れて帰ってきたこと。病気のご近所さんの御節を毎年作っていること。私の地元の同級生の嫁姑の悩みを聞いていること。アラスカから来た女の子たちがうちで休んでいたこと。

14.07.15
「残された時間をどう過ごすか、考えてください」とついに医師に云われ、母が涙ぐんでいたそう。医者はおせっかいだ。
落ち込んでいる母に精一杯のメッセージを送ったら、「明日の手術がうまくいくように祈っていました。こぴっとがんばります!」と返信がきた。こんなときでさえ、前向きで元気をくれる母に涙が止まりませんでした。

14.07.07
離乳食?の試作をしてみた。母の好きなジャガイモの煮付けとカボチャのペースト、りんご煮。煮付けは味を薄くして、水分を足した方がいいかな。見た目ももっと美味しそうじゃないとなぁ http://instagram.com/p/qHUQ8OidPB/

food

14.06.11
明日、病院の付き添いで札幌に。重い話になる前提だから行くのだけれど、ただお母さんに会えるのが嬉しくて、ウキウキしてる。

14.06.04
どうして患者本人の気持ちに寄り添えないのかな。いちばん怖いのは本人なのに。そんなにすぐに気持ちは追いつかないよ。父も医師も、もっと強くなってほしい。お母さんのために。

14.05.11
どうか来年も、お母さんありがとう、と云えますように。と思いながら花を贈る、初めての母の日。

14.05.08
私のお母さんであるまえに、お母さんのいのちはお母さん自身のものだ。

14.05.05
母はさらに痩せていてドキリとしたけれど、元気だし体調もとても良さそうで一安心。体力が落ちて疲れやすいのは病み上がりだからまだ時間がかかるのだと。たぶん母の顔や声を見れば、家族には病状がわかるような気がします。今はとても生命力があり健やか。

14.04.01
お母さんに会いたい。どうして大切な人なのに離れているんだろう。

14.03.29
病気にはやっぱりなにかしら前兆があるのかもしれない。父も母もずっと元気だったけれど、思い返すと時々胸やおなかが痛むことがあったと話していました。

14.03.01
お母さんの声が大きいし、その勢いに私がちょっと負けちゃうくらいだ。私はもう完全に必要ないみたい(笑)

14.02.26
明日、母の3ヶ月ぶりのPET検査。がんは消えている気がして、そう信じてるけど。緊張する。

14.02.24
でも、いちばん近くにいるお父さんがお母さんの病気をきちんと把握していないと、助けられないのに。がんばってよ。

14.02.24
先週末は鹿児島に行かなかったけれど、電話で長く話していても、母は息継ぎをしなかったし、声色が健康な人のそれなので、たぶんガンは消えているんだろう。もうすぐ北海道に帰れるかもしれない。

14.02.14
初診の日、植松先生は紹介状より先に母の顔を見たし、前日に父が倒れたことを心配してくれた。胆のう&胆管炎で管を通したままの母を見て、症状が落ち着くまで放射線治療は延期しましょう、と云ってくれた。言葉が少ないから、よくわからなかったけど、人間味のある先生なのだと気がつきました。

14.02.10
お母さんが朝ゴハンを作ってくれる、幸せ。

14.02.04
腫瘍マーカーの数値が正常値に戻ったそう。母のガンが消えているかもしれないって!! ワァ───ヽ(*゜∀゜*)ノ───イ 月末に最終のPET検査。

14.01.30
ただ、あんなにも愛らしい母に病気で辛い思いをさせることがかわいそうで、とにかく助けたい。つらい思いをさせるくらいなら、ほかの病気の方が良かったんじゃないかと思ってしまうくらい。

4.01.30
母とは、ソウルメイトのような関係です。誰にも云えないようなニュアンスの感情や悩みも、母には話すし、母もたぶんそう。ここ数年、母も友人に恵まれて、母の心の成長を感じていました。

14.01.30
いつも不安が少し勝ってしまうので、意識して口角をあげて笑顔になるようにしてるけれど、お母さんが治ると信じているんだから、家族は一緒に信じてあげないと嘘だと思う。

14.01.08
朝から母の容体が悪化し、慌ただしい一日でした。でも続いていた高熱の原因がわかり、処置できたので一安心。母がああ言ったこうしたとか、看病も治療も病院任せのダメ父についにキレて、半ば叱りとばし、具体的な指示をあれこれ出したら、目が覚めたのか、いつものまともな父に戻っていました(笑

14.01.07
母の病気を前にショックを受け、判断力を失っているのか、父の云うことやることはなんだか頼りにならないことばかり。数十年の社会経験もどこへやら。こういうとき、男親は役に立たないよ!と同僚に忠告されていたけどその通りでした(笑)。まあそんなもんだと思うけど、せめて元気でいてくれー!

13.12.17
お父さんが急性心筋梗塞で倒れてから3日後、母の面会が許されたので、初めてICUに母を連れて行った。お父さんは、お母さんの元気そうな顔を見た瞬間、なんともいえない嬉しそうな顔をしていた。と弟が言ってた(笑)

13.12.16
いちばん切なかったのは、鹿児島に発つ前日。一日だけ実家に帰った夜だった。膵炎を起こしていたから、母は一週間以上食べていなかったし、父と私はなんとか無事に母を鹿児島に連れていきたいと神経質になってた。
にも関わらず、次から次へと親戚や近所の人が見舞いに訪れて、みんな帰っ、と心の中では叫び続けて。挙句、夜中に父と口論になり、母を悲しませた。すべては母を想うあまりのことで。その翌日、お父さんも倒れた。

13.12.07
家族がガンになった時の気持ちは複雑だ。助けるために病気やその治療法の情報を集めるべきだけれど、現実に直面したくない葛藤の中にいる。父は母を失うかもしれない恐怖で、まったく余裕がなく、私は毎晩泣きながら病院のことを調べていました。


mother
iPhoneで写真を撮るお友達、宮原まさみちゃんのギャラリー展に行ってきました。

記憶

どの作品もおうちや近所で花や風景を撮ったりしてるだけなのに、なぜだか彼女の写真には本当に惹きつけられます。彼女の目には景色がこんなふうに見えているなんてうらやましいな。

言葉

夕方にお邪魔したら、まだ作品の展示が終わっていなくて、写真が床に置かれていました。あははw
楽園のカンヴァスで人気の作家、原田マハさんのトークショーに行ってきました。
取り壊し予定の銀座のビルで開催中の1日400名限定!完全予約制アートイベント「The Mirror」の企画です。
http://the-mirror-ginza.com/


伊藤忠商事、森美術館、ニューヨーク近代美術館と華麗な経歴をもつ原田マハさん。
意外にも彼女のトークはまるで「現代アートが好きな親友がハイテンションでしゃべってる」みたいでした。伊藤忠の入社や森美術館を開館前に辞めた(!)ことなど、人生に何度か訪れた転機では「軌道修正しろ!と心のなかでハザードランプが点滅した」のだそう(笑)

その勢いに押されて、ふと「フランスに行こう」と決めました。ずっとルーブル美術館に行きたかったから、これ以上先延ばしにするのはやめようと。

そして、今日はアートにたくさん触れた一日でした。ルイヴィトンギャラリーで制作中のインスタレーションを観て、青参道(表参道と青山通りのあいだ)で開催されている写真のアートフェア「Focus Photography-」にも寄りました。青参道では写真も撮っていただきました。アートで街をつなぐ試み、素敵だ。
http://aosando.com/

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