大和田河川敷広場から浅川に沿って歩いています。
「イスカンダルはどうした?」ですよね。タイムリープしなかったんですよ。ただのトイレでした(当たり前)
でもアレですよ。こうして時間は確実に過ぎていくんですよ。さっき広場のベンチで「ヤニカスは…」とか言ってたのって、もう二度と戻らない過去なんです。それってなんか、凄い事だと思いませんか。
いま眼前にあるのは浅川に架かる鉄道橋で、「電車が通らないかな」と待っている。時刻表を確認して通過時刻を予測して待つことも出来るけど、シュレディンガーの猫のような不確定な状況に、自分の思惑を重ねて期待する。
電車が来るかもしれないし、待つことによって今が過去になっていくことを惜しみ、歩き始めてしまうかもしれない。計画的に待っていたとしても、トラブルで時間通りに電車は来ないかもしれない。この目で、事実として見ることが出来なければ、「見た」とは言えない。
電車が川を渡る為に造られた橋だし、間違いなく電車は通るだろうけど、その時間軸の座標が交わるのは奇跡とも言える。たぶん電車が通る度に「あっ電車だ!」って思う感覚には、そんな気持ちが内在してるんだろうなと思ったりします。
土手を下りて先へ進むことにしました。こういうのは、人間関係で言うところの擦れ違いなんでしょうね。出逢えば何か起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。待ち伏せしてもその日は来ないかもしれないし、「まさかこんな所で」出逢うかもしれない。
生きるってそういうことの繰り返しで、出逢っていても気付かずにスルーしてしまうこともある。そもそも気を配っていなければ、日常的に見慣れた景色の変化には気付けない。目には映っていても、気に留めなければ認識すら出来ない。
五感ですら主観的な選択をしている。見たいものを見るってことは、それ以外のものを捨てているとも言える。日常的な光景なら尚更です。普段と違う道を歩けばそれはもう旅だなんて言われるのも、その意味では確かにそうなのです。初めての道って、慎重に気を配りますもんね。
土手を離れて、八王子バイパス(R16)の陸橋に来ました。一般道なのに、高速道路のような光景ですね。この橋を渡る僕と、眼下の道を走るドライバーも擦れ違いです。平面座標なら交わっている(そしたら事故になる)けど、立体交差では決して交わることはないのです。
あ、ちなみに電車は見ましたよ。100m程通り過ぎた所で走行音が聞こえたので、走って戻りました。動画はインスタにUPしてます。
その電車に乗っていた人々とは、やはり擦れ違いなのです。「あの日あの時あの場所」にいたのに、出逢えなかったという過去になるのです。そして出逢えなかったら、記憶にすら残らない。
出逢いたくない筆頭とも言える痴漢。全ての出逢いが運命ならば、痴漢に遭遇する運命って何だろう。痴漢だなんて誤魔化した表現だけど、実際には強姦だったり強制猥褻だったり、その被害状況を裁判所で傍聴すれば、人間不信になるかもしれない。
ブロック塀からパイプが突き出していて、そこから生活排水が流れているようです。剥き出しの下水かと思いますが、都市化が進む前には日常的な光景だったのでしょうね。
水は流れ、形を変えて循環する。人間もまた、浮世を流れ、形(個体)を変えて循環する。六道輪廻やリインカネーション(輪廻転生)って、そんな発想なのかなと思います。魂(意識)があると信じる心には、DNAレベルで循環の記憶があるからなのかもしれないですね。
んと、なんだか変な文章になってしまいましたね。次回は神社を訪ねますよ。それではまた!