【新座市】慈眼堂 | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

川越街道を北西方向へ歩いています。

 

 

ん?ウシ?だよね。なんでこんな所に?

 

 

え?え?なに?アート?オブジェ?ここにある必然性が分からない。調べてみると、奥にブドウ園があるみたいだけど、関係性が不明。シモキタとかなら「あぁ」って感じなんだけど、結局なんだか分からず終い。

 

 

八雲神社に遭遇。八雲神社は、明治期に祭神を牛頭天王から素戔嗚に変えさせられた神社です。八坂神社や祇園神社、須賀神社なんかもそうですね。由緒書には「素戔嗚(牛頭天王)」と書かれています。

 

 

不審者情報ですらスマホへ一斉通知される現代では、回覧板や伝言板は歴史的な情報通信手段となってしまいました。ただ、今でも電車で新聞紙を広げる人がいるように、無くなってしまったという訳でもありません。

 

「沁みる夜汽車」という番組(NHK)があるのですが、そこでは嘗てあった駅の伝言板に纏わるエピソードなんかも放映されていて、スマホの無かった時代に青春が重なる世代が現役であることを教えてくれます。

 

僕は昭和レトロが好きなので、こうやって広報板が廃れていくのは残念な気持ちになりますが、回覧板の存続は無理があるかなとも思っています。

 

「隣は何をする人ぞ」というのは、いつの時代でも気になることなんだろうとは思うけど、プライバシーやら個人情報やらでガチガチな秘密主義になった現代では厳しい。

 

これってリモートワークに抵抗があって、「やっぱり対面じゃなきゃ」って思う意識に近い。でもたぶん、そう感じている人って多いんじゃないかなぁとも思うのです。人間はやはり、群れて生きる生物なんだろうと思っているからです。

 

「皆と一緒(に群れる)」が安心なんですよね。満員電車なんて、普通に考えたら尋常じゃない。でも「みんな我慢してるんだから」で納得しちゃう。

 

それを否定はしませんよ。何事もメリットとデメリットがあるので、両面を知った上で行動を選択する。それが自立した個人だと思うし、否定から入る人って、「私には偏見があります」と自己紹介しているようなものだと思いますからね。

 

 

武蔵野線の高架を潜ります。この先で志木街道と交差します。そこで左へ行けばJR新座駅で、右へ行くと東武東上線の志木駅です。

 

 

志木街道を志木駅の方へ進むと、慈眼堂があります。名前からすると慈眼大師(天海)が祀られているように思われるのですが、この地には川越街道で倒れた馬が埋葬されており、薬師如来が祀られているとのことです。

 

両サイドに地蔵菩薩が脇侍のように建てられている為、地蔵堂とも呼ばれているとか。お地蔵さんにはマフラーが巻かれていますが、左の方が女性っぽい顔立ちをしているように見えます。

 

 

ここに来たのは、もちろんこれを観る為です。日月や鶏も描かれており、三猿もあってオールスター庚申塔と言いたい所ですが、青面金剛が合掌していて、ショケラを掴んでいません。川越街道にあった庚申塔とは全然違いますよね。

 

さっき伝言板の話をしましたが、伝言ゲームよろしく、口伝だとこんなに距離が近くても像容が変わってしまう。そもそも作者も違うでしょう。そのオリジナリティがいいのです。僕の庚申塔巡礼は、それを実際に確認する為に行っている(彫刻鑑賞)という側面もあるのです。

 

 

新座駅にやって来ました。これはトイレでしょうね。「見た目は男でも、心は女だから女子トイレに入らせろ」なんて騒いでいた人達がいましたね。はっきり言うけど、全く理解できません。ジェンダー云々の前に、欲望が先行しているだけのように思います。スルーでいいと思いますけどね。

 

 

駅前に水車があります。新座市は「雑木林とせせらぎのある新座」を掲げており、今も見られる野火止用水の象徴として置かれているオブジェです。「雑木林とせせらぎ」っていいですね。今度来る時には、新座市を中心に探索してみたいと思います。

 

 

そんな訳で、今回の探索はここがゴールです。歩行距離11.0km、歩数16,146歩、上った階数10階でした。

 

 

それではまた!