【八王子市】信松院(1) | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

信松院にやって来ました。

 

 

信松は、武田信玄の四女とされる松姫の出家後の呼び名です。武田家の滅亡後、なんとか恩方まで逃げ延びて来た松姫は、恩方の心源院で出家しました。御年22歳。その後29歳の時に当地で庵を結び、武田一族の菩提を弔いました。彼女の没後、金龍山信松院として開山しています。

 

 

文化財歩行禁煙の看板が立っています。お寺の参拝者って高齢者が多いですからね。高齢男性は歩き煙草を「不適切にもほどがある!」なんて露ほどにも思っていません。「何が悪いんじゃ」って感じで、灰はもちろん、吸殻は地面に落とせば土に還るという認識だったりするので、こういった看板は外せないのです。

 

 

門前に松姫の姿がありました。市役所近くの鶴巻橋にもありましたね。7歳で織田信忠(11歳)と婚約した松姫。しかし三方ヶ原の戦いで織田が徳川に援軍を送ったことから、婚約は破棄されてしまいます。

 

その翌年に信玄が病死。跡を継いだ松姫の異母兄である勝頼も織田徳川連合軍の前に屈し、武田家は滅亡。実兄の仁科盛信の居城である高遠城に居た松姫は、督姫(盛信の娘)や貞姫(勝頼の娘)、香貴姫(小山田信茂の娘)の手を引いて峠を越え、恩方に逃げ延びたのです。姫達は皆、4歳の幼子でした。この時越えた峠には、松姫峠という名が付けられています。

 

 

ご尊顔を拝してみました。どことなく信玄に似ていますね。前半生は波乱続きでしたが、当地に庵を結んでからは、糸を紡いで絹を織り、その技術を里人に伝えたり、近隣の子に読み書きを教えたりしていました。それ故、土地の人達には大変慕われていたようです。

 

 

武田菱と呼ばれる割菱の家紋。前九年の役の際、源頼義が住吉神社から拝領した鎧にあった文様で、後に末子の義光が子孫である甲斐源氏武田氏の家宝とし、代々の当主が受け継いだことから家紋になっています。なんとその鎧は、国宝として菅田天神社(甲州市)に現存しています。

 

 

お城のような本堂。観音堂の上に、五重塔の五層目を表す仏塔(舎利殿)が建てられています。昭和63年(1988)の建立ですから、まだ新しい建物ですね。松のアーチも架かっていて、地元の方々の松姫への尊崇が伝わってきます。

 

次回も境内の探索です。それではまた!