今回は、天官賜福の中で好きな言葉の一つ、「人は上に行っても、下に行っても、人でしかない」を見ていきます。今回は考察ではなく、個人的な解釈です。(引玉についてのネタバレを含むので、ネタバレNGの方はご注意ください)

人上為人、人下為人」(人は上に行っても、下に行っても、人でしかない)


この言葉は、謝憐の師匠である梅念卿が謝憐に言った言葉です。


「昔から、人は上に行けば神になり、下に行けば鬼になると言われているが、それは間違いで、人は上に行っても、下に行っても、人でしかない」


この言葉を聞くと、死ぬ間際の引玉と謝憐の会話を思い出します。

記事14「権一真と引玉について」にて、少し簡潔に紹介した引玉と謝憐の会話ですが、少し詳しめに対話を見ていきます。

 

引玉:「権一真は天才で、俺は普通の人なんだ。どれだけ頑張ってもここ止まりなのはわかってる。わかってるけど、彼に対して恨みがないと言えば嘘だし、錦衣仙を着ているのを知っているのに、’’死んじまえ’’と口にしたのが本心だったのか、怒りすぎて理性を失ってつい口にしただけなのか、考えるのも怖い」

 

謝憐:「大丈夫、大丈夫だから。そんなの小さいことだ。本当だよ。引玉殿下、この世で更に何百年生きていれば、それがどうってないことに気がつくよ。怒りすぎて理性を失っていたとしても、本心としても、どちらでもいい。誰だって考えたことぐらいあるじゃないか。

 

私だって、自分を傷つけた全ての人達を殺したいと思ったことがあるんだ。それに、あと少しで実際にやった。それでも私だって、面の皮を厚くして、今まで生きているじゃないか。最後まで何もしなかった、それが大事なんだ」

 

引玉:「でも、ただただ・・悔しいんだ。才能に溢れる人になれないと決まったなら、少なくとも、俺は...善良な人になりたかった。でも...それもできなかったんだ。本当に...すごく悔しい。

 

実はこの期に及んでも、あんな馬鹿な奴のために死ぬと考えただけで、納得ができないんだ。何も恨みも悔いもなく、釈然と死に行くことさえもできないんだ...。ほんと何なんだよ」

 

謝憐:「引玉殿下、もう十分努力しているよ。十分良くやった。大多数の人よりだいぶうまくやったよ」

 

引玉:「大多数の人より上手くやった?・・でも俺がなりたかったのは人間ではなく’’神’’なんだ...」

その声と共に、引玉は息を引き取ります。

 

でも、これには続きがあります。

 

謝憐は頭を深く下げながら、

「でも、引玉殿下、この世には元々神なんていないんだ...」と返します。

 

 

つまり、謝憐は「神はそもそもいない」と言っているのです。

引玉はおそらく「神」に、人間とは一線を画すような、幻想と期待を抱きすぎていたのではないでしょうか。

 

本当は才能あふれる「神」になりたかった。けれども、自分よりも才能がある権一真に取って代わられてしまい、それでも少なくとも、善良な「神」になりたかった。でも最後まで、どちらにもなりきれなくて、悔いしか残らない最期を迎えます。

 

ちなみに引玉と謝憐のこの会話の章のタイトルは、「善を尽くすことができなくて、心に遺憾が残る」なのです。

 

 

謝憐は飛昇する前から「神」の本質をよく理解していたと思います。過去編の中で謝憐はこう言っています。

 

「人は飛昇して神となる。神は人にとって先達で、導師で、標灯だが、主ではない。感謝すべきで、賛美することもできるが、崇拝すべきではない。感謝の気持ちと、(楽しい行事は)同時に楽しむのが正しい姿勢で、恐縮したり、機嫌を取ったり、戦々恐々としてしもべのように振る舞うものではない」

 

謝憐にとっては、神は人間の延長でしかなく、''万人を救う神''なんて、初めからどこかにいるわけではないのです。

 

「人間」が飛昇を機に、突然「万人を救う神」になるわけでもありません。人間も、神も、鬼も、みんな人格や思想に区別はなく、本質は同じなのです。

 

天官賜福に登場する神は、いわゆる聖人のような「神」ではなく、とても人間らしい神となっています。口が悪い神もいれば、権力になびく神もいる。周りの顔色を伺う神もいれば、噂話が好きな神もいる。みんな人間の延長でしかないのです。

 

 

謝憐はそんな満天の神官の中でも、一番「神」らしい心の持ち主なのですが、それでも自分のことを聖人のような「神」だと思ったことはありません。

 

飛昇して神になった時も、自分を拝まなくていい、と思ったし、「誰かに大きな希望を持たない方がいい」「私は君が思っているような人じゃない」と思います。自分の人間らしい部分に目を背けることなく、そんな等身大の自分を受け入れています。

 

どの神官の悪事が明るみになっても、謝憐は決して相手を責めていません。誰でも間違うことがあり、誰でも完璧ではないと知っているからです。

 

 

謝憐は八百年の間、民の一人として民と同じ暮らしをし、民の苦を味わいました。三度目の飛昇を果たしても、神とは言えど、ガラクタの神でしかなく、他の神々からも嘲笑され、誰も彼の言うことなんて気にも留めません。

 

八百年の間に民の一人として揉まれて、もはや自分が殿下であることも忘れかけていて、誰かに殿下と呼ばれても社交辞令やお世辞だと思うのです。

 

それでも彼は八百年前も八百年後も、例え華やかな姿でも落ちぶれた姿でも、どんな状況にあっても、自分の信念や道徳を固く守っているのです。ただ、世界がより良くなるために、自分ができる努力をしてきたのです。

 

 

人はどこかを境に神になるのではなく、また、人か、神か、鬼かに関わらず、常により良い世界のために努力する必要がある、ということではないかと思うのです。

 

現実世界に当てはめて考えれば、例えば、「自分が大成功を収めたらボランティアをしよう」とか「自分が宝くじに当たったら募金しよう」ではなくて、今自分が立っている場所で、自分にできることから始めるべき、ということを伝えようとしているのではないかと思うのです。

 

ボランティアをしない人は、たとえ大成功を収めてもボランティアをしないし、募金しない人は、たとえ宝くじに当たっても募金をしないのです。

 

人はどこまで上に行っても、下に行っても、本質は変わらない。そういうことを伝えているのではないかと思うのです。

 

 

「人上為人、人下為人」

とても深い言葉なので、十人十色の解釈があると思います。今はこの解釈ですが、読み返しているうちにまた解釈が変わってくるかもしれません。

 

解釈が変わることもまた、自分の成長を感じる面白い部分だと思います。

やはり天官賜福は何度も繰り返し読みたくなります。