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父との関係が悪かったのは、殴られた時のことが原因だとずっと思っていたけれど、アドラー心理学に出逢ってから、考えが逆転したと。
「父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出しているのだ」という自己分析ができたとき、そのことから考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになる。
自分の「決心」をするにあたって、父がどんなライフスタイルで、自分をどう思っているのか等々、相手に修復の意思がなくても一向に構わない。
対人関係のカードは常に「わたし」にある。
という
(わたしなりに要約してます)
その観点からみれば、
いったいわたしは何の言い訳に「息子が自分でもわからないくらい心配」と言って、そのカードを使っているのだろうか?
そう考えていくと…
アドラーの考えというのは、
自分の人生に対して言い訳をあたえない。
徹頭徹尾、「自分の人生を自分の手でチョイスし、生ききる」というスタンスなのだと感じつつ
考えてみました。
そして、
わたしは、
「子育て下手です。妻として、母として、才能ありません」という言い訳を
誰でもない、自分自身にしているのだと思いました。
それに、
人から「なんという子育てをしているんだ」と言われるのが怖かったのかもしれません。
現に、母親から息子について言われると、 母は何一つわたしの子育てに関わったことがないのに!と腹が立ってしまいます
だとしたら…
いったい私はどうしたいんだい?
本当は息子との関係をどうしたいんだい?
これは、いまの段階で出てきた言葉なので、これからも変化していくかもしれませんが
子育てについて 、
確かに私はよくわからない
わかってないところもたくさんあるだろう
だけど
それでも わたしは、
堂々と
私がその時(その場面で)
大切だと感じることを息子に伝えていきたい
息子の成長の隣にいたい
(見守っていきたい)
その中で、
息子という存在と、家族とともに変化(成長)していけたらいいなって
とっっっっても
思ってることに気がつきました。
自信がなかったんですね
それを認めると母としてダメなヤツだと
自分で認めてしまうことになる。
それは、息子に対してとっても失礼だと思ってたんです。
でも、
ダメな母でもいい。
息子の母にはかわりなく、
もしかしたら、
息子にとってはダメな母では
ないかもしれない
だとしたら
この生(命)、
わたしにも息子にも家族にも
わたしの両親にも
失礼なことせず
あたしは あたしとして
あたしのまんまで
堂々と息子の母として在るんだ
って
誓いました
思いがけない「その3」の結末でした…