とある一連の報道に接して思うことがあるので書きます。

ジャズって自由なものです。そして音楽って自由なものです。でもそれって、あるルールやモラルの上ではじめて成り立つものなのです。


魚は海の中を、鳥は広大な空を自由に泳ぎ、飛び回ります。


しかし、それは自分のなわばりや群れの境界線の中だけでの話です。そこを越えれば常に危険に晒されます。
何かに守られているからこそ、その中で僕らは自由に生きることができているのです。


ジャズは自由で、クラシックは自由がない、という人がたまにいます。

何言ってるんだ?!
クラシック音楽は自由だよ。

そのルールの枠組みや、その中での「自由の在り方」というもののスタイルが違うだけで、要はその「枠」の存在を知らないから自由というものが何なのかわからないだけ。


例えばクラシックは楽譜通りに演奏する。だからこそその中でプレイヤーの個性が浮き出てくる。基本的に「ビート」というものに縛られていないから、同じ音符の長さでも、そこに揺らぎを作り上げることができる。などなど…。

ジャズはむしろものすごいルールが決まっている。コード進行は規定されていてループを繰り返しているのだし、ソロ部分の小節数は決まっている。ルールがきちんと存在するからこそ、その中で自由に感性を爆発させることができる。


我々はモラルとルールに乗っ取って日常生活を過ごしている。ルールを破ることが自由なのではなくて、その自由を勝ち取るために、様々な外枠(ルールやモラル)を生み出してきた。そのルールという水槽の外枠を知らないし、見たこともないから、自由に泳ぐことができない。そのギリギリの境界線を攻める技術も勇気も持たない。悪いのはルールではなく、無知だ。


ルールは守るべきである。なぜならそれは防御壁だから。
ルールという囲いから出ることでどれだけ自分と周りの人間を危険に陥れるかを考えるべきだ。
ルールという枠の中に、無限の自由な世界を見いだすことができることが、アーティストの資質だ。
そこに何も生み出せないのなら、アーティストとは呼べない。そこはあなたの居場所ではない。今すぐ出ていくべきだ。


バッハの時代。音楽は数学的な緻密な構造によって生み出されていた。優れた知性を持つ選ばれた人間にしかなし得ない業だった。

ハイドンがソナタ形式というシンプルな構造を叩き上げる。そのルールに乗っ取って作曲すれば、幾らでもある程度の水準の曲が作れるようになった。

モーツァルトはそのルールの中で、信じられないほど自由に自己表現をすることができた。

ベートーヴェンはそのルールを破りながら、ギリギリのラインで秩序を保った。

シューベルトが、シューマンがロマン派という文法を発展させ、ブラームスはそこに古典派以前の厳格な教会旋法などを呼び起こし、ワーグナーが調性を滲ませ、マーラーが膨張させ、シェーンベルクが無調で全てを破壊し、それに替わる新たなルールを作り上げる。

以降、ルールというものが規定できない自由と引き換えに、再び音楽は選ばれた者にしか理解できない難解なものになったり、それ以前の野生と本能を紡ぎだしたり、古典のルールを再現したりしていく内に資本主義という社会的ルールに飲み込まれるように消費音楽やBGMという分野へと沈められ、またそこで発展し続けている。


そうした流れとは別にジャズは「自由」を旗印に、ルールを形成していった。またそれが壊されたり、取り戻されたり、様々な経緯の中で現代まで引き継がれていき、こんなアジアの最東の日本という国でも愛される音楽である。

そのルールを後世に伝え、残し、自由を手放すことなくプレイすることの大切さを伝えるのはプロとして、大人としての義務である。



自由をはき違える若者と、
ルールの大切さを伝える大人。
何も知らない無知な外野の人たち。
センセーショナルな記事を垂れ流したいマスコミと、
お祭り好きなネット民。


ただそれだけ。