はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。大島真寿美さんといえば、以前直木賞を受賞した「渦」が有名ですが、私もその一作しか読んだことがありませんでした。「渦」は大変面白かったのですが、大島真寿美さんはそれっきりになっておりまして、「ピエタ」を読み終わった今、もっと早くこの方の作品を読んでおけば良かった、と後悔しています。そんなわけで、いざ、ヴィヴァルディの生きたヴェネツィアへ参りましょう。
「ピエタ」大島真寿美(ポプラ社)
水の都、ヴェネツィア。中世、君主に支配されるヨーロッパの国々の中にあって、ヴェネツィアは共和制による繁栄を謳歌していた。しかしそれも末期になり、貴族たちの腐敗が始まる。腐った果実の甘い汁、と作中で例えられるような、空虚な華やかさがヴェネツィアを覆っていた。孤児院『ピエタ』でかつてヴィヴァルディに師事していたエミーリアは、師の訃報を受け取る。ピエタの経営状況も苦しくなる中で、エミーリアはヴィヴァルディの散逸した楽譜の中から一枚の特別な楽譜を見つけることと引き替えに、大口の寄付をする、との申し出を受けた。楽譜を探す中で、エミーリアが出会う過去の記憶の数々。いったいヴィヴァルディの遺した楽譜は、どこに消えたのか。
この本を知ったきっかけを頭の中で必死に探っているのだが、どうしても分からない。このブログの始まりにもなった「海の都の物語」の中で言及されているのかとも思ったが、「ピエタ」の参考文献にそれらが載っているから、「ピエタ」の方があとなわけだ。もしかしたら、大島さんが単行本版の「海の都の物語」を参考にして、そのあとで塩野さんが文庫版で「ピエタ」に言及したのかもしれない。ともかく、ヴェネツィアが舞台となっていることがこの本を知るきっかけになったのは、まず間違いないだろう。
そんな「ピエタ」で重要になってくるのは、もちろん作曲家ヴィヴァルディだ。「四季」が最も有名だろう。これを読み終わったあと、私は自然とその「四季」を聞いていた。かつて、ヴェネツィアでこの曲はどんな風に演奏されていたのか、と思いを馳せながら聞く「四季」はなかなか感慨深いものがある。楽譜のおかげで、数百年前に作られた曲が現代でもこうして演奏されることの奇跡と感動が、胸にあふれてきた。本もそうだが、記録の価値というのは計り知れない。ものによれば千年以上前までもその記録によってさかのぼることができるのだ。その時代に生きた人々の肉声が、記録を通して聞こえてくるような気がするのは私だけだろうか。
そして、主人公のエミーリアは、かつての記憶をたどりながら、楽譜を探すためこっそりと孤児院を抜け出し、ヴェネツィアを巡る。孤児院の中と、他の人々の日常の違いも興味深い。しかし、必死になってエミーリアは楽譜を探すも、それはなかなか見つからなかった。その代わりに彼女が出会ったのは、ピエタに閉じこもっていただけでは決して出会えない人の数々。
じょじょに傾いていくピエタが、なんとなくヴェネツィア全体の未来を暗示しているようにも見え、どんなものもいつかは滅ぶのだ、という当たり前の事実に直面した。しかし、全てが滅んでしまうがゆえに、それらが愛おしくなるのもまた事実なのだろう。これからも私たちが紡いでいく歴史の中には、「ピエタ」のような人々の喜怒哀楽があるのだ。そのことが改めて胸に迫ってくる作品だった。
おわりに
ということで、「ピエタ」についてでした。大島真寿美さんの作品も全部読んでみたいです。さて、次回は原田マハさんの「たゆたえども沈まず」についてです。どうぞお楽しみに。それでは最後までご覧くださりありがとうございました!