はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、ワイルドの「サロメ」についてです。新約聖書に登場する預言者ヨハネ(ヨカナーン)に恋した、ユダヤのヘロデ王の継娘、サロメは、自分に応えてくれないヨハネを求め、彼の首を望みます。
「サロメ」オスカー・ワイルド(光文社古典新訳文庫)
この作品の存在を知ったのは、荻原規子さんの「樹上のゆりかご」からだった。それからずっと、記憶の片隅にはあったものの、なんとなく手に取るのもためらわれていたのだが、ついに読んだ。
猟奇的だと切り離すことができたら、どんなに楽かもしれない。けれど、サロメのただひたすらにヨカナーンに注ぐまなざしの純粋さは、私にそれを許してくれない。戯曲であり、地の文も少ないが、台詞から伝わってくる思いに一切共感せずに読み切るというのは難しかった。現代ならば、いやこの物語の実際の舞台となっているヘロデ王の時代であっても、このサロメの行動には眉を潜め、汚らわしい悪女だ、と切り捨てることができる人はたくさんいるかもしれない。だが、私にとってはとても困難だった。私自身の中にサロメのような一面がない、ということを否定しきることはできない。
サロメの姿を見ていて思い出したのは、阿部智里さんの「烏に単は似合わない」に登場する姫、白珠である。未読の方は気になることと思うので、読み飛ばしていただきたい。その白珠が、物語の終盤で、狂気に満たされて笑う場面がある。その美しさが描写されるのだ。ひたすらな純情に由来する狂気、それゆえの美しさ。これは、サロメとも共通するところがないだろうか。阿部智里さんが荻原規子さんをお好きなことは、対談をしたり、荻原さんの作品の解説を担っていることでも、明らかであり、またご本人もそう明言されている。ということは、「樹上のゆりかご」から「サロメ」へ、そして「烏に単は似合わない」の白珠につながった、ということもありえるのではないか、とふと思った。単なる憶測に過ぎないが、あり得ないことではないように感じた。
訳者である平野啓一郎さんが、解説でも再三言及されていたが、他の訳だとサロメの描き方がだいぶ異なるという。他の日本語版や、さらには英語版、原書と、読み比べてみるのも面白そうだ。「ユダヤ戦記」にも興味が出てくる。もっとも、今はヘロドトスの「歴史」を読んでいるので、しばらくは手をつけられそうもないが……。
おわりに
ということで、「サロメ」についてでした。価値観というのは、時代によって移り変わり、決して不変のものではありません。だからこそ、古代の価値観に触れることによって、現在に生きる、自分と異なる価値観を持つ人々も受け入れられるようになりたい、と思いました。
さて、次回は未定ですが、守り人シリーズや塩野七生さんの「愛の年代記」などを読んでいます。その中のどれかにするか、あとはマキアヴェッリ全集の2も途中ですね。気長にお待ちいただければ嬉しいです。それでは、またお会いしましょう。最後までご覧くださり、ありがとうございました!