はじめに

 みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、「塩狩峠」の作者である三浦綾子さんの、「氷点」についてです。物語を通して、キリスト教の信仰について、ひいては人の生き方について、考えさせられます。

 

 

「氷点」三浦綾子(角川文庫)

 幼いルリ子を、殺人犯の手によって失った辻口とその妻夏枝、そして息子の徹。ルリ子が殺される一因となった夏枝に、辻口は怒りを募らせる。そんな中、一家に養子としてやって来たのが、陽子だった。手探りながらも歩んでいく、四人家族の物語。

 

 この作品を通じて軸に据えられているのは、「汝の敵を愛せ」というキリストの言葉である。辻口は、その言葉と葛藤しつつ、ルリ子を失ったあとの人生を送ることとなった。敵とは何か、それを愛することは人に可能なのか。そんな問いが絶えず作品の中から響いてくるような気がする。

 

 自らの非を素直に認めて、謝るということも難しいのに、まして向こうに非があるとわかりきっているとき、相手を愛するということは果たして可能なのだろうか。私にはできないと思うし、そういう人間の弱さを作者はよく分かっている。等身大の人間の姿が、描き出されているような気がした。弱かった人が、迷い、戸惑いながらも、戦い、あがき、そうしてその言葉の真意を見つけだす姿に、深く心を動かされた。

 

 結局のところ、聖書の言葉など、一般に名言とされる言葉の真の価値は、自分で実際にそのような状態に陥ってみないことには、分からないのではないだろうか。それを、擬似的であっても体験させてくれるのが、この作品だと思う。読者は、辻口の葛藤を自らのことのように受け止め、彼に感情移入する。それを通して、「汝の敵を愛せ」という言葉の意味を考えるし、そうしてその言葉の価値を得るのだろう。

 

 さて、これは、私にとってはごくごく珍しい例なのだが、結末に納得がいかなかった。だから、そこについて少し書きたいと思う。ネタバレになるので、未読の方にはご注意いただきたい。

 

 それは、結局陽子が犯人の子ではなかった、ということだ。そこへの運び方などは気にならないのだが、そもそもの設定自体に違和感を覚えた。確かに、先祖をたどれば誰だって人殺しがいるだろう。しかし、陽子が犯人の子であることは、それとは全く異なる意味を持つことのような気がするのだ。辻口夫妻にとっては、陽子は愛する娘の仇の娘であった。だからこそ、汝の敵を愛せ、という言葉が成立し得たのではないか。そこで、その設定をひっくり返してしまうことに、納得がいかなかった。テーマとして、「汝の敵を愛せ」があったのに、気づいたら「原罪」にすり替わってしまっていて、居心地の悪さを覚えたのだ。

 

 そしてまた、犯人の子であることには、罪がある、だから、陽子を犯人の子でない、とすることで、人殺しとのつながりが罪であることを肯定してしまっているように感じられた。私は、たとえ血縁関係はあれど、所詮親は子にとって他人であると思うし、また、人間同士の結びつきというのは、自分と他人、という関係以外に成立しないのではないか、と思う。どんなに親しい相手でも、考えていることは分からないし、また、言葉を尽くしても伝わらないことだってあるのだ。

 

 くどくどと述べてきたが、つまり「原罪」が全ての人にある、ということ自体に納得がいかないのかもしれない。分からないこの感覚を、理解できるようになる日は、いつか来るのだろうか。

 

おわりに

 ということで、「氷点」についてでした。実は、読み終わった本はたくさんあるのですが、なかなかまとまった時間がとれず、色々ため込んでいます。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの「ダークホルムの闇の君」や、マルクス・アウレリウスの「自省録」、それからサトクリフの「白馬の騎士」です。その中から、次回は1本選んで書きたいと思います。

 

 それでは、またお会いしましょう。最後までご覧くださり、ありがとうございました!