はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。4月に始めたこのブログも、ついに百本目! 何か特別なことをしようと思いましたが、結局通常通り、書くことにします。「背教者ユリアヌス 一」はこちらからご覧ください。広まるキリスト教に立ち向かい、古きギリシア・ローマの神々を守ろうとした皇帝、ユリアヌスの生涯が、ついに幕を下ろします。
「背教者ユリアヌス」辻邦生(中公文庫)
キリスト教の洗礼を幼いことに受けながらも、ギリシア・ローマの神々の復興に力を注いだ皇帝ユリアヌス。彼は、キリスト教に対抗するため、ローマ神教の改革に着手したが、国境を侵犯するペルシアを叩くため、やむなく出兵する。そして、志半ばで、投げ槍に命を落としたのだった。
どこまでもひたむきなユリアヌスの生涯に、感動した。排他的で、地上のものごとに目を向けないキリスト教徒たちの拡大を押しとどめようと、必死にあがくユリアヌス。だが、内心苛立ちはしても、彼はできるだけ穏便な手段で、それを試みていた。人の考える力を信じ、哲学の力を以て広大な帝国を治めようとしていた彼が、夭折したことが残念でならない。もし彼がその命を永らえていたら、ローマ帝国までもその終焉を先延ばしにすることができたのではないか、と思う。
だが、その一方で理想を追求するユリアヌスの姿には、違和感を覚えた。唯一の正義など、この世界にあるのだろうか。本当にローマの神々が復興することは、古き良き時代の再現に通じるのか、疑問だった。ユリアヌスについてはほとんど詳しくなく、塩野七生さんの「ローマ人の物語」とこの作品を通してしか知らないが、「ローマ人の物語」を通して抱いた私のユリアヌス像と、この「背教者ユリアヌス」で描かれる彼の姿には、齟齬があるのだ。
なぜなら、私はユリアヌスのことを、もっと現実が見えている人物だと感じていたからだ。現実が見えており、自分の理想が実現できないことを知りながら、それを諦めきれない、という点では同じだが、その現実を見ている度合いが、私とこの作品のユリアヌス像では、微妙に異なるのである。
だが、この作品のユリアヌスも好ましかった。正義を追求するユリアヌスの姿に、ふと思ったことが一つある。それは、正義を突き詰めていくことと、正義を否定していくということは、本質的には同じことなのではないか、ということだ。
誰にでも通用する正義と、正義をひとつひとつ否定していったあとに残るものは、同じものかもしれない。それが何なのかは私には分からないが、少ないことは確実であるし、ひょっとしたら無なのかもしれない。だが、これはひとつ大きな発見だった。正義を否定する作品ばかり読んできたからかもしれないが、たまにはこうやって唯一無二の正義を追求する人の姿を眺めるのも、悪くないと思う。
おわりに
ということで、「背教者ユリアヌス」についてでした。次は、小野不由美さんの「東亰異聞」についてです。どうぞお楽しみに。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています。