はじめに
みなさんこんにちは。本野鳥子です。今回は、上橋菜穂子さんの「鹿の王 還って行く者 下」についてです。前編になります「鹿の王 生き残った者 上」はこちら。それでは今回も、壮大な上橋菜穂子さんの世界へ旅をすることといたしましょう。
「鹿の王 還って行く者 下」上橋菜穂子(角川書店)
上巻に引き続き、やはり新型コロナウイルスと黒狼熱を重ね合わせて読んでしまう。かけがえのない命を容赦なく奪っていく病気に、抗う術を求め続けるホッサルたちの姿には、今の状況を思い出さずにはいられない。
上橋菜穂子さんの描くファンタジーの世界は、私に現実を忘れさせ、のめり込ませてくれる。その一方で、読み終わったときには、逃げてきたはずの現実に向き合う勇気を与えてくれる作家だ。今回もまた、登場人物たちの力強さに、希望を与えられた。
これは完全に余談だが、ヴァンは作中で、冬の林にたとえられている。私はそれに、獣の奏者のイアルを思い出した。彼も、冬の木立と形容されていたのだ。何度も何度も読んできたのに、今まで気づかなかった。
ヴァンとイアルには、確かに共通したものがある。かたや家族を失い、かたや家族に見捨てられ、虚無の中を淡々と生きてきた二人。その二人は、物語を通して、生きることの意味を見いだす。どうして、その二人が冬の木とされているのか。
至らないなりに思いを巡らせてみれば、秋に葉を落とした冬の木が、春になって若葉を萌え立たせ、花を咲かせる、その前段階であるからだと思う。今はまだ、冬の寒さを全身に受け、枯れ枝があるだけだが、彼らはきっと春の訪れをじっとこらえているのだ。そう考えると、まだ物語の最初のほうで、彼らが冬の木とされているのも納得がいく。葉に象徴される生きる意味を失い、長い冬を迎えた彼らは、再び春を迎え、葉を芽吹かせるのだろう。
と考察してみたわけだが、上橋さんのことだから、意識などしていないのかもしれない。あるいは、もっと深い意味が込められているかも分からない。ただ、新しい人生を見いだした彼らの姿に、私たちも希望を見ることができる。
もう一つ特筆すべきは、自然の描写の美しさだろう。この作品は、全体を通して、木漏れ陽の印象がとても強い。青い若葉を透かして、柔らかく足下に差し込む光は、上橋さんご自身のブログのタイトルにも使われている。また、「鹿の王」の序章は「〈光る葉〉の卵」、最終章は「緑の光」と、これまた木漏れ陽を連想させる。
今は、たとえるならば冬なのかもしれない。出口の見えない、暗いトンネルのような日々が続いている。けれど、明るい未来を信じて、顔を上げ、ささやかな努力を怠らないようにしたいと思った。最後にひとつ、引用させていただく。
(病に命を奪われることを、あきらめてよいのは)
あきらめて受け入れる他に、為すすべののない者だけだ。
他者の命が奪われることを見過ごしてよいのは、たすけるすべを持たぬ者だけだ。
おわりに
新型コロナウイルスは、なかなか収まる気配を見せませんね。みなさん、どうか家で、「鹿の王」でも読んで、収束を待ちましょう。今は、ささやかでもできることをひとつひとつ積み上げていくときだと思います。
次回は、この「鹿の王」の続編となる「鹿の王 水底の橋」です。その後のホッサルたちの歩みを追いかけます。お楽しみに。