アメリカン・ボーン・チャイニーズ アメリカ生まれの中国人/ジーン・ルエン・ヤン(ストーリー&作画)/椎名ゆかり訳/花伝社

 

これは……何ですか(困惑)?

途中まで↑ってなってしまう不思議な作品。
そして最後まで読むと、「なるほどそうだったのか」となる部分と、「これは……何ですか?」のままの部分が混在した、不思議な読後感が残ります。
でも難解というわけではなく、面白い作品です。

「スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン」や「シャン・チー ブラザーズ・アンド・シスターズ」などで知られる台湾からの移民を両親に持つアメリカのコミックライター&グラフィックノベル作家ジーン・ルエン・ヤンが2006年に発表したYAグラフィックノベル。
2007年マイケル・L・プリンツ賞受賞作品&2006年全米図書賞児童書YA部門最終候補選出と、グラフィックノベルながらYA文学として高い評価を受けています。



この物語には、主人公が3人います。


まず1人目は、現代アメリカの7年生(中学1年)の男子ジン・ワン。
アメリカで生まれた中国系で、台湾移民の心優しい同級生ウェイチェンが親友。白人のアメリアに片思い中だけど、いつでもみんなから「ちょっとダサい奴」扱いされているアジア系のため、なかなか一歩踏み出す勇気が出ない。

ウェイチェンとの友情やケンカ、アメリアとの初デート、自分を差別してくる白人の同級生男子への奇妙な憧れ…
ジンのパートでは、「アメリカン・ボーン・チャイニーズ」としての彼の複雑な気持ちと中学校での青春の日々がリアルに淡々と描かれます。



2人目の主人公は、ジンより少し年上の、高校2年生の少年ダニー。
まだ2年生なのに2回も転校していて学校が3校目だというワケありの彼は、見た目はハンサムな金髪の白人男子。だけど彼にはコッテコテの中国人のいとこ・チンキーがいます。

毎年アメリカに遊びにくるチンキーは、絵に描いたような「中国人」。チャイナ服に辮髪、出っ歯で吊り目、図々しい性格、口を開けばアルアルした語尾のなまった英語で下品なエロ発言を連発。
ダニーはこのダサいトンデモ中国人のチンキーが本当に迷惑なのですが、不本意にも相手からは懐かれてしまっています。
渡米して遊びに来るたび毎年彼を学校に連れて行かなければならず、そのせいで毎回周囲から変な目で見られるようになり転校を繰り返さざるを得ないのがダニーの大きな悩みです。


そして3人目の主人公は…孫悟空。はい。みんなが知ってるあの孫悟空です。
古代中国の猿の王国を治める王様で、雲に乗れるし巨大化もできる。神や妖怪ですら彼に勝てないほど強い功夫使い。
それなのに「猿だから」という理由でバカにされて神々の宴会への参加を拒否されたことから暴れん坊の問題児と化し、ついには創造神・自有者(ツェ・ヨ・ツァー)から罰をくらって岩山の下に閉じ込められてしまいます。

長い時を経て、彼のもとにやってきたのはひとりの僧侶。創造神に託された使命で遠い西方への旅に出るというその僧は、岩山の下の悟空に旅の供をする弟子になれと呼びかけます。それに対する悟空の答えは…


この、時も場所もバラバラの3つの物語が互い違いに語られていった末、最後にひとつの物語として結びついて着地します。

 

寓話なのか、マジックリアリズムなファンタジー物語なのか、壮大な妄想入りの青春物語なのか判然としない奇妙な話。

だけど、ひとつストレートに伝わってくるのは、自分が自分であることを愛せない、自分でない誰かになりたがってしまう、自分で自分を恥じてしまうことの悲しみです。


ひとり例を挙げると、1人目の主人公のジンは、自分を見下して相手にしてくれない白人の男子たちと友だちになりたがる。
そして彼が憧れてそうなりたがった白人少年の姿は、彼に対してひどい差別的な発言をした少年にどこか似ている。

でもジンが憧れた白人の少年たちって、ほんとしょうもない子供なんですよ。他人に言っていいことと悪いことの区別もつかない、悪気ゼロで(それどころか善意のつもりで)とんでもない差別発言ができる考えなしのガキンチョ。

わざわざそんな差別丸出しで人格ペラッペラのつまらないクソ野郎になりたがらなくてもいいじゃないか。ダサい子扱いされてたって、たくさん悩んで色々考えてるジンやウェイチェンのほうが素敵だよ。

側から見てそういうのは簡単なんだけど――
だけど、そんなしょうもないやつらにどうしても憧れてしまうジンの気持ちはわかる。

いつでもみんなからあまりにも自然に少し見下されているのはつらい。そのせいで自分でいることがどうしても恥ずかしいのもつらい。
見下されないあいつに、自分が自分でいることが平気で無根拠に自信たっぷりなあいつらになりたい。何の理由もなく、当然のように、生まれながらに、一段上の存在として振る舞えるあいつらになりたい。

わかる。


人間て誰かに見下されることで、自分を見下している相手がいるそちらを「上」だと錯覚してしまうことってあるんですよね。それで本能的に「上」を目指してしまう。
そっちはしょうもないペラッペラの奴しかいない地獄みたいな場所なのに。

自分の周囲をぐるっと差別や偏見で囲まれるというのは、波に体ごと呑まれて自分の位置がわからなくなるようなものなのかもしれません。その中で、「上」だと思って必死で海底や沖に向かって泳いでしまうことがある。

だけど冷静に自分の本当のかたちを思い出して、自分がどの位置にいるのかを把握すれば、溺れることなく水面に顔を出して、浜に上がって好きな場所へ歩いていける可能性が生まれる――のかもしれません。


自分を愛せない3人の主人公が、自分が誰なのかを思い出して肯定するまでが描かれる、奇妙な魅力のある物語でした。



これは作者のヤンがストーリーと作画の両方を手がけたグラフィックノベル作品なんですが、グラフィックノベルとしては、絵が語り過ぎない独特のシンプルな絵柄や、コマからコマへのテンポが淡々ととぼけていていい味を出しています。

私はジンと孫悟空の会話シーンのテンポが妙に好きで、この部分を何度も見返してしまいました。




 

 

ところで、ここはよくわからなかったんだけど、孫悟空の物語に一部キリスト教のキャラが混入してるのって何か意味があるのかな?

この「アメリカン・ボーン・チャイニーズ」で語られる孫悟空の物語はかなりアレンジされてて、原点の「西遊記」とは結構ストーリーが違ってるんですが、中でも奇妙なのは、孫悟空が出会って掌の中でワチャワチャする相手がお釈迦様ではなく「自有者(ツェ・ヨ・ツァー)」という別の神、というところです。
この「自有者」というのは、ユダヤ教徒やキリスト教徒が「ヤーウェ」、イスラム教徒が「アッラー」と呼ぶ創造神の中国語名のようです。

アッラーは姿を描いちゃいけないことになってるし、本編にはイエスとマリアがカメオ出演していたりもするので、これ作者はたぶんキリスト教の神のつもりで描いてると思うんですが。

単にキリスト教徒が多いアメリカの読者にわかりやすくするためか、この神の「自有者(自分が有る者)」という中国名に意味があるのか、ほかにもっと深い意図があるのか…?あと孫悟空のお師匠様の発言もちょっとキリスト教っぽかったりするんですよね。




さて、この「アメリカン・ボーン・チャイニーズ」は現在アメリカでドラマ化が進行中です。

すでに撮影されてて、一部本編の映像が公開されているんですが(こちら↓)、リアルとファンタジーがあえてチープな作りで混ざり合ってて、結構面白そうです。

 

 


しかし原作読了してから改めてこの映像見て思ったけど、これもしかして、ドラマには「チンキー」というキャラを登場させるのがムリだったのかな?
 

この公開されてる部分だけだと、チンキーではなく古代中国の神々や妖怪が学校に現れて暴れる話になってるように見えます。

チンキーは上で述べたように、中国人やアジア人への差別意識と偏見だけを煮詰めて作ったようなキャラで(※こういうキャラであることにはちゃんと意味がある)、確かに今時あそこまで差別丸出しの造形のキャラを登場させるのはめちゃくちゃ勇気がいるとは思うけど。
文脈無視して彼の登場シーンだけ切り出してTwitterにでも流されたら秒で炎上しそうだしなあ。


でもチンキーいないと話の印象全然変わっちゃうよね。たぶん、ずっとマイルドで飲み込みやすくなる。
それはこの作品にとってはあまり良いことではないような気がします。