続:和泉式部って、どんな人?! | マンボウのブログ

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さて、武田早苗による本から、いくつか引用・紹介してみようか・・・!チョキ

 

 

   メモ・・・和泉式部が出仕したのは、定子が没してすでに九年が経過した頃であった。寛弘五年(1008)に待望の男皇子(敦成親王、後の後一条帝)を出産、さらに二宮(敦良親王、後の後朱雀帝)懐妊の兆しが見えはじめていた折でもあり、まさに中宮彰子は、我が世の春を謳歌していた。彰子の許には、母倫子の女房であった赤染衛門が入内当初から従い、古参として重きをなしていただけでなく、寛弘三年(1006)末には紫式部が、寛弘四年(1007)春には伊勢大輔が出仕するなど当代の才媛たちが先を競うように侍っていた。それは、父、藤原道長の力によるものであることは言うまでもない。・・・(p.150)

 

 

まさに、この時期の才媛VIPたちのオンパレードだわ!びっくり

 

 

   メモ・・・和泉式部が出仕先でどのような生活を送ったのか詳しいことは分からないが、この宮仕えが縁で、藤原保昌との婚姻が成立したのは確かである。・・・(p.154)

 

 

なお、この後、保昌は丹後守に就任。丹後(京都府北部)へ下向した二人だった・・・このエピソードを伝えているのが祇園祭の保昌山である。

 

   ラブラブ丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材し、保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をあらわしている。

 

 

   保昌山(祇園祭)

 

 

 

 

 

小式部内侍(和泉式部の娘)の歌も百人一首にある。大江山は、丹後地方の山で、酒呑童子の伝説で知られている。OK

 

   

 

 

日本三景の一つ「天橋立」は、股覗きで有名だわ(^^)ウシシ

 

 

   百人一首】(大江山/六〇・小式部内侍)|羽田さえ

 

 

   メモ・・・和泉式部が前夫橘道貞との間に儲けた一女は、彰子の許へ出仕し、母の女房名にちなみ、小式部内侍と名付けられた。彼女は、母に劣らないほど魅力的であったようで、複数の男性との交際が知られ、子を儲けてもいる。だが、いずれも正式な婚姻には至らなかったようだ。貴顕の人、藤原道長の三男、教通との交際は、その身分差故に小式部内侍にとって肩身の狭いものでもあったのだろう。・・・(p.169)

 

 

何だか、蛙の子は蛙というフレーズが頭をよぎったなあ(^^)ニヤリ

 

 

   メモ・・・小式部内侍の死は、母である和泉式部に大きな衝撃を与えた。

 

     内侍のうせたる頃、雪の降りて消えぬれば

   などて君むなしき空に消えにけんあは雪だにもふればふる世に(正集473)

       内侍が亡くなった頃、雪が降って(その後溶けて)消えたので(詠んだ歌)

     どうしてあなたははかなくも虚空に消えて(亡くなって)しまったのでしょう。淡雪でさえ、降れば(少しは)とどまっておりますのに。・・・(p.176)

 

 

母よりも先に逝った娘を思う和泉式部の詠歌だ。えーん

 

 

     相関図