さてさて、それぞれの作家たちが描いた源氏物語の帖を繙いてみようか・・・!
松浦理英子「帚木」から・・・こんな言葉が目を惹いた!
・・・女房たちが笑えば「しいっ」と制しなさる、それも脇息に寄りかかったまま、という按配。女房たちはそんなくだけたお姿の色っぽさを眼福と喜びます。・・・(p.14)
この「眼福」という言葉はいったい原作などではどうなっているのか・・・
玉上琢彌訳注の角川ソフィア文庫によると、
・・・(源氏)「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまひや。・・・(p.77-8)
それでは、与謝野晶子の訳では如何に?
・・・「静かに」
といって、脇息に寄りかかったようすにも品のよさが見えた。・・・(p.25)
原文にも与謝野晶子の訳にもそれらしき言葉は見出せない。
「くだけたお姿の色っぽさ」
「いと安らかなる御ふるまひ」
「品のよさ」
対応するのはこの表現で、「眼福」というのは松浦理英子の導き出した用語だろうて!
ちなみに、「眼福」とは、珍しいもの、美しいものなどを見ることのできた幸せ。目の保養。(goo辞書)
松浦理英子は、思い切って「帚木」の前半部の「雨夜の品定め」を省いて、空蝉とその弟・小君と源氏との三者のやり取りにスポットを当てたところは秀逸かな。。。
江國香織「夕顔」は、王朝の雅感覚は取捨されているけど、とっても読みやすい。さながら短編映画のようで、この調子で全帖をやってくれたら人気が出ること間違いなし!
なお、江國香織は現代語訳「更級日記」も出している。
年齢の近い角田光代訳と双璧を築くかもしれないなあ。。。(^^)
その角田光代「若紫」は、前半部の北山での祈祷などは省いて、しかも現代風の仕立てになり、私(若紫)の視点から眺めた男(光源氏)とのやりとりがメインとなっている。いわば翻案に近いとも言えそうだ。
町田康「末摘花」は、大阪弁がめっちゃオモロイわ(^^)
金原ひとみ「葵」は、全く現代小説で女性の立場から妊娠、出産という心の動きが私小説風に語られる。「葵」と「光」という若夫婦の物語で、およそ「源氏物語」を思わせるところはない。
島田雅彦「須磨」は、題材からしてあまり面白くはないなあ。。。
日和聡子「蛍」では、敬語を使用しているので、他の翻案とは異なる印象を受ける。
ここでは、多くの姫君の名が登場する・・・玉鬘が中心だけど、花散里、明石、紫の上、雲居雁、撫子などなど。また、
・・・「物語は、誰それの身の上といって、ありのままに書きあらわすということはなく、よいことも悪いことも、世に生きる人の有様の、見るにも見飽きず、聞くにも聞き捨てにできないようなこと、後の世にも言い伝えさせたいと思う事々を、心ひとつにおさめがたくて、書きおきはじめたものなのです。(後略)・・・(p.239)
この語りは、メタフィクションを彷彿とさせるなあ。
桐野夏生「柏木」では、語り手が女三宮だということに読み進めてゆくうちに分かってくる。それが工夫といえば・・・しかし、期待していたほどの面白みは感じなかったなあ。。。
最後に置かれたのが、小池昌代「浮舟」である。これがイチバン読み応えあるわ!
・・・恋とはまったく珍妙な現象です。人は、なぜ、誰かに似たひとに恋するのでしょう。かつて愛した恋人に、母に、姉に、妹に似たひと。なぜ、ひとつの面影を探し続けるのですか? わたくしもまた、きっと誰かに似た女なのでしょう。しかし、そうして面影を求めるとき、わたくしたちはいったい、何に恋しているの。恋とは空洞です。ひたすらに幻を追い求める行為ですね。・・・(p.283)
これは著者、小池昌代の感慨だろうか(^^)
匂宮と浮舟との縺れ合いシーンを赤裸々に描く小池さんの表情が見てみたいなあ!
九つのうちどれか一つだけ選べと言われたら、迷うことなくコレに指を折りたい。。。
昨12月から7か月にわたって長期連載(31回)してきたシリーズも、ここらで幕引きとしたい!
<「源氏物語」を愉しむ!>・・・番外篇1-2