続:平川祐弘著作集を繙いてみた・・・! | マンボウのブログ

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フラヌールの視界から、さまざまな事象に遊ぶ

さて、「藤壷」の巻を離れて、気になった部分を引用してみたい!チョキ

 

 

   メモ・・・ウェイリーは『源氏物語』を論じて、おのおのの巻に細かく吟味されてとりいれられた一連の要素はさながら音楽のような効果をもたらしている、と指摘した。そしてモーツァルトの交響曲の各楽章さながらである、とも言った。そう比べられたとき、意想外の発言に墟を衝かれた思いがした(英訳源氏の第二分冊のイントロダクション)。だがその時は驚いたが、いつかその説を私は肯定するようになっていた。

 その音楽的な流れのことが頭にあるものだから、世を捨てた源氏にまつわるユルスナール女史の補筆を、私としては外にはじき出したい気持に駆られた。源氏の死は明瞭にされず予感にのみ記される。その空白が『源氏物語』に独自の気品と余韻の世界を作っているのである。ユルスナールの挿入は『偐紫田舎源氏』のようなバーレスクとはいわないが、流麗な交響曲の流れの中に、欧州の田舎女の筆になる、盛りをすぎて攻めに出る花散里の御登場となった。どうも手前勝手な曲が割り込んだような、余計というか闖入というか、違和感を覚えたのである。読んだ文章がフランス語だったのがいけなかったのかもしれない。印象が露骨で直接的なのである。それに対して原文で読む際は、日本語古文が一種のクッションとなって、生々しさを感じさせないからでもあるが、たとえば紫式部は男女の機微を描いても decorum の感覚をはずすことのない女性であった。

 忌むべきことはやはり忌むべきである。紫式部という芸術家は何を省略すべきか心得ていた。それは審美的要請でもあったが、倫理的要請でもあった。源氏の死様は直視してはならない。だから雲隠の巻はなにも書かれなかった方が理にかなっていた。白紙のままがいい。それが自然ですなおである。・・・(p.727-8)

 

 

これは卓抜した叙述で、日本の国文学者はとても書けないような卓見だ(と思う)!びっくり

モーツァルトが登場するとは驚きだわ(^^)口笛

 

 

ユルスナールは『源氏物語』を評価したフランス作家だけど、平川さんの眼にかかると木端微塵にされてしまった。ウシシ

 

 

 

   メモ・・・秋になり夕霧はそんな落葉の宮をまた訪れる。母の御息所が応対するが、静かに更ける夜、夕霧は柏木の楽器で想夫恋を弾き、落葉の宮も勧められて合奏する。帰りがけに御息所は柏木遺愛の横笛を贈物にする。落葉の宮に心を残しながら三条の邸に帰宅すると、北の方雲居の雁が不機嫌になっている。かねて相思相愛で知られた夕霧と雲居の雁の間はどうなるか。他方、夕霧と落葉の宮の間はどうなるか。・・・(p.746)

 

 

こんな文章に出会うと、その先がどうなるのか読んでみたくなるのは必定かも。OK

 

 

 

人物:[ア]冠直衣姿の左大将夕霧、29歳 [イ]単衣姿の雲居雁(父内大臣、母は按察大納言と再婚)、31歳 [ウ]袿姿の大輔の乳母か [エ]表着と裳姿の侍女
室内:①文 ②生絹(すずし)の単衣 ③指貫の括り紐 ④高麗縁の畳 ⑤硯箱 ⑥屏風 ⑦板敷 ⑧硯 ⑨筆架(ひっか) ⑩小刀 ⑪・⑫・⑬鞘(さや)に入れた筆 ⑭墨柄(すみつか)に挟んだ墨 ⑮水差 ⑯引き違い式障子 ⑰上長押 ⑱厨子 ⑲釘隠 ⑳柱 鴨居 色紙形 障子 母屋 廂 蝙蝠扇(かわほりおおぎ) 

 

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki29

 

 

 

 

   <「源氏物語」を愉しむ!>・・・補遺2-2