マンボウのブログ

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フラヌールの視界から、さまざまな事象に遊ぶ

それでは、キラキラ「モルグ街の殺人」冒頭のパラグラフを見てみよう!チョキ

 

 

先ずは、ポーの原文から。

 

 

  THE MURDERS IN THE RUE MORGUE

 

 What song the Syrens sang, or what name Achilles assumed when he hid himself among women, although puzzling questions, are not beyond all conjecture.

                                Sir Thomas Browne

 

 The mental features discoursed of as the analytical, are, in themselves, but little susceptible or analysis.  We appreciate them only in their effects.  We know of them, among other things, that they are always to their possessor, when inordinately possessed, a source of the liveliest enjoyment.  As the strong man exults in his physical ability, delighting in such exercises as call his muscles into action, so glories the analyst in that moral activity which disentangles.  He derives pleasure from even the most trivial occupations bringing his talent into play.  He is fond of each a degree of acumen which appears to the ordinary apprehension praeternatural.  His results, brought about by the very soul and essence of method, have, in truth, the whole air of intuition.

                                 (p.141)

 

 

 

日本語訳は、これまで紹介されてこなかった、松村達雄(1911-1990)訳(「世界文学全集 第5巻」河出書房新社 1989)を先ずは挙げておこう。右差し

 

 

 「モルグ街の殺人」

 

    サイレンははたしてどんな歌を歌ったのか、また、アキレスが

    女たちの中に身をかくしたとき、どんないつわりの名を名のっ

    たのか、これはじつに難問だが、かならずしもあらゆる推測を

    許さぬというわけでもない。

              サー・トマス・ブラウン、「壺の埋葬」

 

 

 普通分析的といわれている精神活動そのものが、あまり分析を許さぬものである。結果を見てはじめてその真価が判明する。何よりもはっきりしているのは、分析能力に並みはずれて恵まれている者には、つねにそれが溌剌たる喜びの源となる、ということである。たくましい人間はみずからの肉体的能力に得意然となって、筋肉を働かす運動をよろこぶものだが、分析家は物事を解きほぐす知的活動に満悦感を味わう。自分の才能を発揮できる仕事なら、どんなつまらぬ事にも楽しみを感ずる。謎や知恵くらべや暗号解きを好んで、そういう難問の解決に一般人の理解力からみれば超人的とも思える鋭敏さを示すのである。その解答は、まことに秩序整然たる手順をふんで得られるのだが、一見まったく直感的解答のように思える。

                                  (p.94)

 

 

 

 

   <エドガー・アラン・ポーを読む・・・!>・・・44

さて、それではこの代表作を。。。チョキ

 

 

    キラキラ「本日休演(Relache)」

 

 

 ヨーロッパを席巻したあのディアギレフのロシア・バレエ団につぐ次の世代としての注目すべき新しいバレエの活動を繰りひろげつつあったロルフ・ド・マレ率いるスウェーデン・バレエ団からの委嘱で、サティは1924年に新作バレエを作曲した。

 台本・舞台監督・衣装はフランスのダダイストの詩人・画家であったフランス・ピカビア。振付はジャン・ボルラン。1924年12月4日、パリのシャンゼリゼ劇場で初演されたが、大スキャンダルに湧いた。

 このバレエには「映画による”幕間”と『犬の尻尾』付の2幕の瞬間主義バレエ」という副題がつけられていた。”幕間”とは後述するように、このバレエの1幕と2幕のあいだの休憩時間に映画が上映されることであり、「犬の尻尾」については、いまだに誰ひとりその正態がわからない。当事者のひとりであった映画監督のルネ・クレールでさえ、回顧録のなかで、「それに関しては、誰ひとり影も形もみたものはいなかった・・・」と書いている。そもそもピカビアのシナリオにも、それに当たるものは見当たらないのである。

  (中略)

 題名の Relache、ルラーシュとは、フランスで芝居や音楽会のない日に劇場に貼り出される「本日休演」のこと。ダダ的なこんな曲名。そのために、予定された初日の日に、主役のボルランが病気になって、本当に本日休演の貼紙を出したところ、観客は劇場に入ろうとして、大混乱がおこった。「本日休演」上演(?)が実際におこなわれたのはその4日後のことだった。 (p.455-6)

 

 

 

 

 

 

 「本日休演」は激しい賛否両論にまっぷたつに分かれた。画家フェルナン・レジェは「<本日休演>は伝統的なバレエとの断絶、決裂である」という。そればかりではなく、「シナリオやすべての文学は地獄へ落ちろ! <休演>は尊ばれまいが、どっちにしろ、それは背中への強力なキックなのだ」と激しいことばで評価した。そして、<本日休演>がバレエとミュージック・ホールの防水隔壁を破壊してしまったという事実の重要性にレジェは注目した。 (p.459)

 

 

  幕間 : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com

 

 

 

 

 

 

 

   <エリック・サティ没後100年に寄せて!>・・・21

 

それでは、今度はキラキラ「モルグ街の殺人」を取上げてみよう!チョキ

 

 

先ず、どんな作品なのか、鴻巣友季子編「E.A.ポー」(集英社文庫ヘリテージシリーズ 2016)の作品解題から引用する。

 

 

『モルグ街の殺人』"The Murders in the Rue Morgue" (1841)

 名探偵デュパン・シリーズ第一弾。<<グレアムズ・マガジン>>誌1841年4月号に掲載された。史上初の推理小説。語り手「ぼく」はモンマルトル街の図書館で没落した名門の出であるC・オーギュスト・デュパンに出会い、パリ滞在中一緒に住むことになる。おりしも、「モルグ街」の邸宅で母娘が惨殺されるという事件が紙面を賑わす。猟奇的な手口、超人的な逃亡経路、金品の放置、外国語らしき言葉を発した犯人、人間とは異なる体毛の採取。デュパンはあらゆる物語/人証を得意の分析力で洗い直し、真犯人を見事に推理して見せる。

 本作品は、執筆当時の1839年7月にフィラデルフィアのマソニック・ホールで催されていたオランウータンの展示に着想を得たのではないかと推測される。1932年ベラ・ルゴシ主演、ロバート・フローリー監督で初映画化された。またブリティッシュ・メタルバンド、アイアン・メイデンのアルバム『キラーズ』(1981年発表)の三曲目に「モルグ街の殺人」が収録されている。

 なお、日本で本作品が初めて紹介されたのは、1887(明治20)年12月であり、饗庭篁村の「ルーモルグの人殺し 竹の舎主人意譚」が<<読売新聞附録>>に三回にわたり分掲された。

                               (p.770-1)

 

 

 

ポーは、この作品の冒頭において、長々と蘊蓄を披露するかのように、この作品への導入としているのだ(同書の丸谷才一訳)。

 

 

 人びとが分析的知性と呼んでいるものがあるが、これを分析することは、ほとんど不可能である。ぼくたちはそれを、ただ結果から判断して高く評価するだけなのだ。が、それについて判っていることの一つは、分析的知性はその持主にとって、つねに、このうえなく溌剌とした楽しみの源泉であるということだ。ちょうど身体強健な人間が肉体的な有能さを誇らしく思い、筋肉を動かす運動をおこなって満足を味わうのと同じように、分析家は錯綜した物事を解明する知的活動を喜ぶのである。彼は、自分の才能を発揮することができるものなら、どんなつまらないことにでも快楽を見出す。彼は謎を好み、判じ物を好み、秘密文字を好む。そして、それらの解明において、凡庸な人間の眼には超自然的とさえ映ずるような鋭利さを示す。実際、彼の結論は、方法それ自体によってもたらされるのだけれども、直観としか思えないような雰囲気を漂わせているのだ。

                              (p.27)

 

 

この後に、数学やチェス、チェッカーや、カードゲームのホイストなどの比較も延々と続けた後に、右差し

 

 

 分析力を単なる発明力と混同してはならない。なぜなら、分析的な人間はかならず発明に巧みだけれども、発明に巧みでいながら非分析的な人間がかなり多いからである。普通、発明力は構成力ないし結合力という形をとって外にあらわれる。そして骨相学者たちは(彼らは誤っているとぼくは信ずるのだが)、これを原始的な能力と見なし、独立した一器官の作用であると考えているけれども、こういう力は(これは道徳について論ずる人びとの注意を広く惹いたことだが)ほかの点では白痴に等しい人間においてしばしば見出されるのである。実際、発明力と分析力とのあいだには、空想と想像力のあいだの相違に酷似した、しかもそれよりももっと大きな相違があるのだ。それゆえ、発明的な人間はつねに空想的であり、真に想像力に富んだ人間はかならず分析的である、ということが理解できるはずである。

 以下に示す物語は、これまで述べた命題の注釈のような役割を、読者にたいして果たすことになろう。

                              (p.31)

 

 

 

こういう長々と前書きがあったあとに、物語は始まるのだ!口笛

 

果たして、このような前書きが必要なのかどうか、単に推理・探偵小説として読む読者にとっては、「なきにしもあらず」感が拭えない気もするけど。グラサン

 

 

なお、江戸川乱歩名義訳として刊行されている渡辺温訳(「ポー傑作集」中公文庫 2019)ではこの前段は省略されているわ!ガーン

 

 

 

 

   <エドガー・アラン・ポーを読む・・・!>・・・43