こんにちは、リブラです。
今回は「イニシエーション」第10章の解説です。
「死」と対峙したことで、逆説的に
「私は、なぜ生きるのか?」という問いに
向き合い始める章です。
まずは、あらすじから。
第10章 はじめて死と対峙する(あらすじ)
婚約を解消した後、
エリザベスは心身を休めるため、
自然豊かな伯母の家で療養することになりました。
ある春の日。
穀物畑の真ん中に立っていた彼女は、突然、
「死」というものと真正面から向き合うことになります。
ふと、こんな考えが浮かんだのです。
「どうせみんな死ぬのに、どうしてこんなに
頑張らなければならないのだろう?」
その瞬間、エリザベスの胸の奥から、
まるで生命の火が消えてしまったかのように、
冷たい感覚が広がっていきました。
ピアノを練習することも。
誰かを愛することも。
喜ぶことも、悲しむことも。
これまで自分が大切だと思っていたことのすべてが、
突然、意味を失ってしまったのです。
どれだけ努力しても、どれだけ苦しんでも、
最後には誰もが同じ「死」という場所に行き着く。
それなら、最初から何もしないほうがいいのではないか。
そんな虚無感が一気に押し寄せ、
エリザベスは立っていることさえできなくなり、
そばにあった木にすがりつきました。
そして、この絶望の中で、
彼女は自殺さえ考えてしまいます。
しかし、その瞬間、どこからともなく
嘲るような声が聞こえてきました。
「自殺しても死からは逃げられないよ」
生きることが怖いから死を選ぼうとしても、
それは結局、自分から死そのものへ
飛び込んでいくことにほかなりません。
そのことに気づいたとき、
エリザベスは愕然とします。
死から逃げることもできない。
生きることからも逃げられない。
自分には、どこにも逃げ場がない。
彼女はこのとき初めて、
「死」というものを
本当の意味で意識したのです。
その後、エリザベスは
「死は誰にでも訪れるものなのだ」と悟りながらも、
科学の進歩によって、
いつか人間の不死が実現するのではないかと考え、
一時的に希望を見出します。
けれども、後になって彼女は気づくことになります。
本当の「不死」とは、
肉体が永遠に生き続けることではない。
それは、
「死というものが、
本当は存在しないことに自分自身で気づくこと」
なのだ、と。
死についての大きな問いを抱えたまま
家に戻ったエリザベスを、父親の言葉が支えます。
「身につけた知識や技能は、誰にも奪うことができない」
その言葉を胸に、エリザベスは
ピアノ教師の資格を取得することを決意します。
死について考えたことで、
彼女はすべてを投げ出すのではなく、
もう一度、自分の人生を歩み始めるのです。
「どうせ死ぬのだから、何をしても無意味なのではないか」
そんな問いを突きつけられたエリザベスは、
ここから再び「生きる」という方向へ向かっていきます。
「イニシエーション」第10章の要約
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『イニシエーション』第10章の解説
はじめて死と対峙する――死の向こう側で「生きる意味」を見つける
「イニシエーション」を読み進めていると、ときどき
「これは私自身の人生の話ではないだろうか」
と思うような場面に出会います。
この章でエリザベスは、
初めて真正面から「死」と向き合います。
そして私は、この章を読みながら、
9歳の頃に自分自身が死と対峙した日のことを
思い出しました。
不思議なことに、エリザベスと私には、
死を考えたときに立っていた地点に、
よく似たところがあったのです。
それは、
「どうせ最後には死ぬのなら、
苦しみながら生き続けるより、
今死んでしまったほうがいい」
と考えた地点でした。
けれども、そこから私たちを「生きる」
という方向へ戻したものは、
それぞれ違っていました。
今回は、エリザベスと私の体験を重ねながら、
この章を読んでみたいと思います。
エリザベスが初めて向き合った「死」とは何だったのか?
婚約を解消したエリザベスは、
穀物畑の真ん中で、突然、
「どうせみんな死ぬのに、どうしてこんなに
頑張らなければならないのだろう?」
という考えに憑りつかれました。
それは、胸の奥から、生命の火が消えてしまうような
冷たい感覚を伴う「死への恐怖」でした。
でもエリザベスは、明日をも知れぬ重病人でも、
命の危険にさらされる環境にいるわけでは
ありません。
支配的な婚約者とキレイに別れ、
のどかな田舎で自由を満喫しているときに
突如襲って来た恐怖なのです。
身体に死の影が忍び寄る恐怖ではありません。
これまで大切だと思っていたことのすべてが、
突然、意味を失うという恐怖です。
どれだけ努力しても、どれだけ苦しんでも、
最後には誰もが死ぬ。
だったら、最初から何もしないほうがいいのではないか。
そんな考えに、エリザベスは、襲われたのです。
ここで、私は少し立ち止まって考えました。
エリザベスを苦しめていたのは、
「生きても意味がない」
という虚無感だったのではないだろうか。
努力しても最後には死ぬ。
「では、いったい何のために生きるのか?」
という問いを突きつけられ、
その答えが見つからないとき、
人は深い虚無感に陥ります。
「私の人生には、どんな価値があるのだろう?」
「どうせ全部なくなるのなら、
最初から何もしなくてもいいのではないか?」
私は、この苦しみはエゴの苦しみなのでは
ないかと思いました。
エゴは、自分の人生に意味や価値を見つけようと
します。
「私は何のために生きているのか」
「私の人生にはどんな意味があるのか」
アイデンティティを追求するのは、
エゴの重要な役割でもあります。
そんなエゴは、
「自分」という物語を必要とします。
なぜなら、
エゴは意識体で実体を持たないからです。
「肉体=自分」と思うことで、
エゴは、かろうじて実在を保っているのです。
ところが「死」という絶対的な事実
を突きつけられた瞬間、
その物語そのものは崩壊します。
「肉体=自分」が消えてなくなれば
自分が生きていたという証も消えゆく運命にあります。
だからエリザベスにとって、
死とは単なる肉体の終わりではなく、
「これまで生きてきたことが、
すべて無意味になってしまうのではないか」
という恐怖でもあったのです。
「死から逃げるために死ぬ」という矛盾
そして、エリザベスは自殺を考えます。
ところが、その瞬間、嘲るように
「自殺しても死からは逃げられないよ」
と囁く声が聞こえました。
この言葉に、彼女は愕然とします。
生きることが怖い。
だから死を選ぼうとする。
けれども、それは
「死」そのものに飛び込むことを意味します。
つまり、
死から逃げるために死を選んでも、
死から逃げることはできない。
その矛盾に気づいて、エリザベスは、
自分にはどこにも逃げ場がないことに気がづきます。
生きることからも逃げられない。
死からも逃げられない。
では、どうすればいいのか。
ここで彼女は、もう一度「生きる」という方向
へ目を向け始めます。
そして私は、9歳で死と対峙した
この場面を読んだとき、
私は9歳の頃の自分を思い出しました。
当時の私は、4人きょうだいの長女でした。
家にはまだ0歳の双子と3歳の乳幼児がいて、
学校から帰ると、その子たちの世話をするのが
私の役目でした。
母は宗教の会合や美容院、買い物などに出かけるため、
私が学校から帰ってくるのを待ち構えるようにして
家を出ていきます。
小さな子どもたちは、ちょっと目を離せば
危険なものに触ったり、何でも口に入れたりする。
一人が泣き出せば、決まって三人とも泣き出す。
泣き声の嵐の中で、どうしていいかわからないまま、
必死になってあやす。そんな毎日でした。
宿題をする余裕もありません。
当然、勉強も遅れていきます。
けれども学校では、家庭の事情など誰も知りません。
教師からは怠け者と思われ、
友達からは「おバカさん」のような扱いを受けていました。
両親からも、
「4人きょうだいの長女なのだから、
下の子の面倒を見るのは当たり前」
「女はどうせ他人にくれてやるのだから、
勉強なんてしなくていい」
と言われていました。
当時の私は、それを疑うこともなく、
「家族の荷物を背負うのが長女の務めなのだ」
と諦めていたのです。
だから私は、この頃いつも、
「生きるのって、しんどい」と思っていました。
大好きな祖父母を失った
そんな私にとって、唯一、
子どもらしい自分に戻れる場所がありました。
母方の祖父母の家です。
夏休みに田舎へ呼んでもらったときだけは、
家族の役割も、学校での評価も、何もかも忘れて、
夢中になって遊ぶことができました。
何の役目も果たさなくてもいい。
何かができなくてもいい。
ただそこにいるだけで、喜んでもらえる。
私にとって祖父母は、そんな存在でした。
ところが、9歳から10歳にかけて、
その祖父母が相次いで亡くなりました。
初めて参列したお葬式で、一番甘えられた祖母が、
白装束の旅支度をした姿で棺の中に横たわっている。
その姿を見た私は、
「おばあちゃんの身体は、もう抜け殻なんだ」
とショックを受けました。
そして数か月後には祖父も亡くなりました。
悲しいというより、私を襲ったのは絶望感でした。
無条件に私を愛してくれる人。
私の顔を見るだけで喜んでくれる人。
何の役目を果たさなくても、
そこにいるだけで歓迎してくれる人。
そんな人が、この世のどこにもいなくなってしまった。
私は、そう感じたのです。
「だったら、あの世に会いに行けばいい」
その絶望感が底を打ったとき、子どもらしい、
とても単純な考えが浮かびました。
「この世におじいちゃんとおばあちゃんがいないなら、
私があの世に会いに行けばいい」
当時の私は、死をそれほど恐ろしいものだとは
思っていませんでした。
この世に未練を残すような、楽しいものも、大切なものも、
ほとんどないと思っていたからです。
そして私は、死のうとしました。
けれども、何度試してもうまくいきません。
そこで、自分の手で首を締めようと、
巻いたタオルを思い切り引っ張りました。
そのとき、ふと気がづいたのです。
「こんなに死にたいと思っているのに、
なんで私の手は止まってしまうのだろう?」
私は、自分の中に奇妙な分離があることに気づきました。
「死にたい」と思っている私がいる。
それなのに、
「死にたくない」と抵抗している身体がある。
どちらも「私」のはずなのに、望んでいることが違う。
これは、いったいどういうことなのだろう?
その瞬間、死ぬことへの関心が一気に失われました。
それよりも、
「この不思議を解き明かさずに死んでしまうのは、
もったいない」と思ったのです。
「意識」と「身体」の神秘
今振り返ってみると、あの日が
私の人生の大きな転換点だったのだと思います。
私はそこで初めて、
「私の意識」と「私の身体」は、
本当に同じものなのだろうか?という
疑問を持ったのです。
「死にたい」と思う意識。
それとは逆に、生きようとして抵抗する身体。
自分の中に、
自分の意思だけでは説明できない何かがある。
私は、それを知りたくなりました。
そして、その問いは、その後の私の人生に
ずっとつながっていくことになります。
玉ねぎの細胞から見えた「生命」
ちょうどその頃、学校の理科の授業で、
玉ねぎの組織を顕微鏡で見る機会がありました。
肉眼で見れば、玉ねぎはただの野菜です。
ところが、顕微鏡を覗いてみると、
そこには整然と並ぶ、繊細で美しい細胞
の世界が広がっていました。
私は、とても感動しました。
「私の身体の中にも、こんな世界があるのだろうか?」
無数の細胞が、それぞれ違う役割を持ちながら、
生命を紡いでいる。
私が何も知らなくても、眠っていても、
意識していなくても、身体の中では生命が営まれている。
そこに思いを巡らせるうちに、
「私は、何か大きなものに見守られ、
支えられて生きているのかもしれない」
というような感覚が生まれました。
そして、このときの感動が、後に私を臨床検査技師
という仕事へ導いていったのだと思います。
私はその後、25年間、病院で人間の身体を
細胞レベルで観察する仕事をすることになりました。
9歳のときに生まれた、
「意識と身体の神秘を知りたい」
という問いが、現実の人生の道を作っていったのです。
エリザベスと私――同じ地点から、違う道へ
こうして振り返ると、エリザベスも私も、
「どうせ最後には死ぬのなら、
苦しみながら生き続けるより、
今死んでしまったほうがいい」
と思ったところが、「死への恐怖」を抜ける
同じ出発点でした。
けれども、
エリザベスを苦しめていたのは、
死を前にした虚無感や無価値感。
「生きることに何の意味があるのか」という、
人生の意味そのものへの絶望でした。
一方、幼い私を苦しめていたのは、
もっと単純で切実なものでした。
大好きな人がいなくなってしまった寂しさ。
そして、
「もう私を無条件に愛してくれる人はいない」
という喪失感でした。
だから、二人を生へ戻したものも違いました。
エリザベスは、死から逃げられないのなら、
死について考え続けるのではなく、
生きる目的へ意識を向けました。
そして、ピアノ教師になることを決意します。
一方、私は、自分の身体が生きようとしている
ことに気づき、そこに生命の神秘を感じました。
「この身体はいったい何なのだろう?」
「私の意識と身体は、どんな関係なのだろう?」
その問いを知りたいという好奇心が、
私を生きる方向へ向かわせたのです。
つまり、
エリザベスは「生きる目的」を見つけた。
私は「生命そのものの神秘」に惹かれた。
同じ「死」の地点に立っても、そこから
生へ向かう道は、人それぞれなのです。
本当の「不死」とは何なのか?
エリザベスは、その後、
科学の進歩によって人間の不死が実現する
のではないかと考え、一時的に希望を見出します。
けれども、後になって彼女は、
もっと深い意味での「不死」に気づいていきます。
肉体の方ではなく、見えない身体の方に本質があると。
本当の不死とは、肉体が永遠に生き続ける
ことではなく、
それは、
「死というものが存在しないことに、
自分自身で気づくこと」なのだ、と。
私は9歳のあのとき、
「死んで祖父母に会いに行こう」と考えました。
でも、実際に死と向き合った瞬間、
私の意識が「死」を望んでも、
身体は「生」を選び、意識と身体の二つの自分が
いることに気づきました。
そこには、自分の頭で考えているだけでは
理解できない生命の力がありました。
私はそれを「身体の神秘」として受け取りました。
けれども、今の私は、そこにもう一つの問いを感じます。
「生きている」とは、いったい何なのだろう?
死を知ることで、「生」が始まる
第10章は、「死」について書かれた章です。
けれども私は、本当は「生きること」について
の章なのではないかと思いました。
死を意識すると、それまで当たり前だった
「生」が突然、不思議なものになります。
なぜ私は生きているのだろう。
なぜ身体は生きようとするのだろう。
なぜ人は愛するのだろう。
なぜ努力するのだろう。
エリザベスは、「死から逃げることはできない」
というところまで行ったことで、
「では、私は何のために生きるのか」という
問いに出会いました。
死という期限を意識することで、
ゴールが明確になり、そこに行くための方向性が
定まるのです。
彼女は当面の目標として、
ピアノ教師を目指すことを決めました。
彼女のエゴは、その暫定的な目標により、
「死への恐怖」から目を逸らすことができたのです。
私は9歳のとき、自分の身体が生きようとする
ことに気づいたことで、
「この生命の神秘を知りたい」
という問いに出会いました。
この好奇心により、祖父母の喪失感を手放し、
神秘の探究へと向かい、今に至っでいます。
死と向き合うことは恐怖ですが、死を意識することで
かえって今の「生」の大切さがクローズアップされ、
「生きる」原動力が湧いて来るのです。
次回も「イニシエーション」の解説を予定しています。
Noteも更新しました。こちらも読んでいただけたらうれしいです!
わたしのサロン、リブラライブラリーでは、
あなたの心のしくみをホロスコープで解説し、
心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題に
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