こんにちは、リブラです。
今回は「イニシエーション」第8章の解説です。
それでは、まず、第8章のあらすじから。
第8章「未来の予兆」(あらすじ)
幼い頃の夏休み、
湖畔の別荘で過ごしていたエリザベスは、
ジプシーの少年がヴァイオリンを弾き、
その演奏で小銭をもらっている姿を目にしました。
それを見たエリザベスは、好奇心から
「自分も何かを披露して小銭を稼いでみよう」
と思いつきます。
友だちと二人で詩を暗唱し、
小銭をもらうことにしたのです。
ところが、それを知った母親から
厳しく叱られてしまいました。
「お父様は国じゅうから尊敬される
地位におられる方なのよ。
だから、あなたはそんなことを
してはいけません」
そう言われ、エリザベスは
外出を禁じられてしまいます。
ところが、同じ別荘に滞在していた
大叔父がその話を聞きつけました。
そして、「ぜひ自分にも朗読を聞かせてほしい」
とエリザベスに頼んだのです。
エリザベスは、ただ詩を暗唱するだけでは
ありませんでした。
身振り手振りを交えながら登場人物になりきり、
一人芝居を演じ始めました。
演じたのは、駆け落ちしようとする恋人たちを
引き裂こうと、父親がライフルを持って
現れるという悲劇でした。
ところが――
エリザベスが真剣に演じれば演じるほど、
そこにいた大人たちは大笑いするのです。
本人にとっては悲劇なのに、観客にとっては喜劇。
エリザベスは、その反応を不本意に思いました。
しかし、そんな
一人芝居が大人たちの間で評判になり、
彼女は毎晩のように演じることになっていきました。
最初のうちは、観客が笑うことを「ひどい」と
思っていたエリザベスでしたが、
やがて人々の反応を気にしなくなります。
聞き手が自分の話を理解しているか、
どう感じているかにも、
こだわらなくなりました。
ただ、自分の内側にある世界を
表現することに夢中になっていったのです。
そして、こんな思いを抱くようになります。
「私が語るのは、真理そのもののため。
大切なのは、人が聞いているかどうかではなく、
神が聞いているかどうかだけなのだ」
その後も、エリザベスの中には
「自分は本当の自分ではなく、
別の人なのではないか」という
不思議な感覚が残り続けました。
あるとき彼女は、ピエロの衣装を
着て暮らしたいと思うようになります。
母親に何度もせがみ、とうとう本物そっくり
のピエロの衣装を作ってもらいました。
さらに、エリザベスは自分の身体が
自然に取る、奇妙なポーズにも気づきます。
そのポーズを繰り返していると、
なぜかとても気持ちがよく、
勉強までよくできるようになるのです。
母親が止めても、エリザベスは
そのポーズをやめようとはしませんでした。
やがて母親も、彼女がそのポーズを
取ることを黙認するようになります。
そんなある日、
エリザベスの家を訪れた客人が、
彼女の奇妙なポーズを見て驚きました。
そして、こう言ったのです。
「これはヨガだ」
しかし、そのときのエリザベスには、
その言葉の意味がわかりませんでした。
なぜ自分がそんなポーズを取るのか。
なぜそれをすると気持ちがいいのか。
自分でも説明することができなかったのです。
ところが後年、エリザベスの中に
過去生の記憶が蘇ったとき、
その謎が明らかになります。
幼い頃から自然に繰り返していたそのポーズは、
かつて神殿で行っていたヨガ修行の続きだったのです。
それは、過去から受け継がれてきたものが、
幼いエリザベスの身体を通して再び現れていたのでした。
そして同時に――
それは、これから彼女が歩んでいく未来を示す
「予兆」でもあったのです。
「イニシエーション」第8章の要約
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第8章「未来の予兆」解説
6章では両親にも生家にも不信感を抱き、
7章では母の愛が瀕死の弟を救ったことで、
「愛の中にこそ『ふるさと』がある」ことを
エリザベスは見つけました。
この8章では、朗読や一人芝居、
後にヨガとなる身体の奇妙なポーズを
母親が快く思わなくても、実行する
というエリザベスが描かれています。
「自分の内側にあるものを、
周囲の評価に左右されず、
この世界に表現する力」
を、幼いエリザベスがどのように育っていったのか。
それがこの章の見どころだと私は思いました。
なぜなら、それはイニシエーター(目覚めたい人々)
にとって、とても重要な資質だからです。
大人たちは、エリザベスの表現を理解していなかった
幼いエリザベスは、大人たちを相手に一人芝居を真剣に演じていました。
ところが、観客である大人たちは毎回大爆笑。
エリザベスが演じていたのは、悲劇です。
大人たちは「子どもが大人を演じている」という、
その表面的な面白さを見て笑っているにすぎないのです。
エリザベスは自分が表現したいものと、
観客(大人たち)が受け取っているものが、
完全にズレていることに気づいていました。
これはかなりつらいことです。
前章までのエリザベスなら
「どうして分かってくれないの?」
「私は真剣なのに、どうして笑うの?」
そう思って、表現することをやめてしまったかもしれせん。
ところが、8章のエリザベスは違いました。
最初は観客の反応を「ひどい」と思いつつも、
やがて彼女はその反応を気にしなくなっていきます。
聞き手が理解しているかどうか。
笑っているかどうか。
自分を評価しているかどうか。
そんなことよりも、
自分の内側にある世界を表現することの方が
大切になっていったのです。
そして彼女は、
「私が語るのは真理そのもののためであり、
大事なのは神が聞いているかどうかだけ」
という境地に近づいていきます。
これは、単なる「人の目を気にしなくなった」
という話ではありません。
もっと根本的な変化です。
「私の表現の価値を、観客に決めさせない」
ということだからです。
「理解されること」を、自分の表現の条件にしない
私たちは、自分が何か新しいこと
を始めようとするとき、
周囲の反応をとても気にします。
「そんなことして、うまくいくの?」
「あなたには無理だよ」
「そんなことをして何になるの?」
そんな言葉を聞くと、
せっかく芽生えた夢はしぼんでしまう。
そして、
「やっぱり私には無理なのかもしれない」
と、元いたコンフォートゾーンへ戻ってしまう。
でも、ここで考えてみたいのです。
その人は、本当に
あなたの未来を知っているのでしょうか?
「あなたには無理」という言葉は、
その人の意見です。
それは、あなたの未来の事実ではありません。
ところが私たちは、ときどき他人の意見を、
そのまま自分の未来の事実に変えてしまいます。
そして、自分から夢を手放してしまう。
エリザベスは、そうしませんでした。
観客が笑っていても、演じ続けた。
なぜなら、「観客に理解されること」より、
「自分の内側にあるものを表現すること」
の方が大切だったからです。
ここに、イニシエーターとしての
重要な資質があります。
「私が何者なのかは、あなたたちには決めさせない」
8章のエリザベスを見ていると、私はこんな言葉が浮かびます。
「私が何者なのかは、あなたたちには決めさせない」
これが心の中にあって、
その意図が揺らがなければ、
非難も反対も嘲笑も、それほど怖くなくなります。
もちろん、嫌なことを言われれば
傷つくことはあるでしょう。
でも、
「そんなことを言われたから、私はやめる」
とはならない。
なぜなら、自分が何者なのかを決める権利を、
相手に渡していないからです。
ここで大切なのが、
being(存在)とdoing(行動)
という視点です。
「私は何をするのか」がdoing。
「私は何者なのか」がbeing。
beingが定まっていれば、doingは驚くほど自由になります。
beingが揺らがなければ、doingは何でもできる
私はこのことを、
自分自身の人生でも経験しています。
私は臨床検査技師になりたいと思ったとき、
父親から反対されました。
それでも私は父に隠れて受験勉強をしました。
そして、強行突破するようにして
臨床検査技師の専門学校へ入りました。
授業料を稼ぐために、売り子やフェリーの掃除など、
アルバイトを掛け持ちして働きました。
今振り返っても、それを恥ずかしいとは思いません。
なぜなら、私にとってそれらは、
「臨床検査技師になる」という夢(being)
を実現するための行動(doing)
だったからです。
「私は臨床検査技師になる」
というbeingが先に決まっていた。
だから、そのために必要なら、売り子にもなれる。
掃除もできる。
勉強もできる。
人からどう見られるかなど、どうでもよかったのです。
夢を叶えるためなら、何だってやればいい。
それだけでした。
beingが揺らがなければ、
doingは自由になる。
これは、エリザベスの姿にも通じるものだと思います。
ピエロになるという「フリ」
この章で、エリザベスはさらに面白い行動に出ます。
彼女は、
「自分が自分ではなく、本当は別の人なのではないか」
という感覚を抱き、
ピエロの衣装を着て暮らすようになります。
母親に何度もせがんで、
とうとう本物そっくりの衣装まで作ってもらう。
ここには、私はエリザベスの強い意思を感じます。
母親は、人前で芸をするようなことをさせたくない。
ところがエリザベスは、それをやめない。
最終的には、反対していた母親に、
自分のためのピエロの衣装まで作らせてしまう。
これは、
「あなたが望むような子どもにはならない」
という宣言にも見えます。
そして、ここで重要なのは、
エリザベスが大人たちと戦っていないことです。
「私を理解してください!」
と説得しているわけでもありません。
「あなたたちが私を笑うなら、
どうぞ笑ってください」
と、むしろ相手が期待する役を演じてしまう。
ここに、後のイニシエーターとしての大きな力が育っています。
「目覚めたマネキン」と同じ技術
これは、これまで読んできた『タフティ』とも、
非常によく似ています。
タフティには、台本に逆らわず、忠実に演じるフリをする
「目覚めたマネキン」という考え方がありました。
これは、何でも人の言う通りにするという意味ではありません。
そうではなく、
外側で演じている役(演者の自分)と、
自分の内側の意識(監督の自分)を混同しない
ということです。
エリザベスも、これとよく似たことをしています。
観客が「子どもが大人を演じている」
という見世物を楽しみたいなら、
演じてあげればいい。
ピエロを見たいなら、
ピエロになってあげればいい。
でも、
「あなたたちが見ているものが、私のすべてではない」
ということを、彼女自身は知っている。
外側では、相手の期待する役を演じる。
しかし内側では、自分の真実を手放さない。
これなら、戦わなくても自由でいられます。
これは、夢を追う人にとって大きなヒントになる
スピリチュアル界隈は、
「夢を叶えたい」
「理想の人生を実現したい」
という人がたくさんいます。
ところが、いざ夢に向かって一歩踏み出すと、
「そんなの無理だよ」
「やめておいたほうがいい」
という周囲の声が聞こえてきます。
すると、自信をなくしてしまう。
そして、
「やっぱり私には無理だったんだ」
と諦めて、コンフォートゾーンへ戻っていく。
そこで、またスピリチュアルなブログを
読んだり、動画を観たりしながら、
「いつか夢が叶ったらいいな」
と思っている。
でも、それでは現実はなかなか変わりません。
なぜなら、
「やっぱり私には無理だったんだ」と思う時点で、
「それが無理な私」というbeingになっています。
その自分beingに基く行動doingが、
「夢を諦める」
「コンフォートゾーンに戻る」ことなのです。
「無理な私」という自分beingでいる限り、
夢を叶えるためのdoingより、
「夢を諦める理由を探すこと」の方が安全と考えます。
第8章のエリザベスは、そんな人たちに、
別の方法を見せてくれているように思います。
反対されたら戦う必要はない。
説得する必要もない。
理解してもらう必要もない。
ただ、
「私はこれをやる」と決める。
そして、必要なら相手が期待する役を演じる。
でも、自分の内側にあるものまで明け渡さない。
これなら、子どもでもできます。
「未来の予兆」とは何だったのか
そして、この章の後半で、
エリザベスが自然に取っていた奇妙な身体のポーズが
「ヨガ」だったと指摘されます。
本人には、その意味がわかりませんでしたが。
それはかつて神殿で行っていたヨガ修行の
続きだったことを、彼女は後になって知ります。
これは確かに、この章の「未来の予兆」の重要な出来事です。
けれども私は、予兆はヨガだけではないと思います。
幼いエリザベスの中には、
後の人生を貫くものが、すでに現れていた。
人に理解されなくても表現すること。
周囲の評価に自分の価値を預けないこと。
外側の役を演じながら、内側の自由を失わないこと。
自分の身体から自然に湧いてくるものを信頼すること。
そして、
自分の内側にあるものを、この世界に表現すること。
それらはすべて、後のエリザベスの人生につながっていきます。
未来のエリザベスが、幼いエリザベスの中にすでに存在していた。
未来を予知していたというより、
未来の自分のbeingが、現在の自分のdoingとして、
すでに始まっていた。
私は、この意味で「未来の予兆」という
タイトルを読むと、とても深いものを感じます。
夢を実現するとは、魂との共同創造
私たちが「夢」と呼んでいるものは、
最初から完成した形を持っているとは限りません。
「こんなことをしてみたい」
「こんな世界を作りたい」
「こんな生き方をしたい」
という、まだ輪郭のないヴィジョン
としてやってくることがあります。
そのとき、それはまだ形のない世界にあります。
それを、身体を持った私たちが、
この現実世界に少しずつ形にしていく。
言葉にする。学ぶ。働く。作る。
人に伝える。失敗する。またやり直す。
そうやって、目に見えなかったものが、
少しずつ現実の中に姿を現してくる。
私はこれは、神(魂)と人間(肉体)との
共同創造なのではないかと思います。
魂には、形のないヴィジョンがある。
人間には、それを現実世界に表現する身体がある。
だから、
beingがdoingを通して、この世界に現れてくる。
それは単なる「願望実現」ではありません。
まだ存在していないものを、
この世界に誕生させる行為です。
だからこそ、美しいのだと思います。
「私が何者なのか」を決めるのは、自分
私はこの8章を読んでいると、
エリザベスの一貫した強い意図を感じます。
「私が何者なのかは、あなたたちには決めさせない」
誰かに笑われたからといって、
あなたの夢が間違いになるわけではありません。
誰かに反対されたからといって、
それが不可能になるわけでもありません。
誰かに「あなたには無理」と言われたからといって、
その人にあなたの未来を決める権利が
あるわけでもありません。
大切なのは、
自分が何者なのかを、自分自身が知っていること。
そして、そのbeingを、この世界に表現していくこと。
doingは、そのために必要なものを、その都度選べばいい。
格好よくなくてもいい。
人から理解されなくてもいい。
笑われてもいい。
最初は小さな一歩でもいい。
エリザベスが子どもの頃に一人芝居を始めたように。
私が臨床検査技師になるために、
売り子やフェリーの掃除をしたように。
夢を叶える人は、
「夢を叶えるのにふさわしいdoing」を
探しているのではありません。
自分のbeingを実現するためなら、
必要なdoingを何でも選べる人
なのです。
そして、そのとき私たちは、
まだ形になっていない魂のヴィジョンを、
この世界に誕生させることができる。
それが、
神(魂)と人間との共同創造なのではないでしょうか。
第8章「未来の予兆」は、
幼いエリザベスの奇妙な行動の中に、
そんな「イニシエーターとしての生き方」の芽が、
すでに存在していたことを
見せてくれているように思います。
次回も「イニシエーション」の解説を予定しています。
Noteも更新しました。こちらも読んでいただけたらうれしいです!
わたしのサロン、リブラライブラリーでは、
あなたの心のしくみをホロスコープで解説し、
心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題に
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