こんにちは、リブラです。今回はミルトン・エリクソンの本を題材に、潜在意識の世界を解説してこうと思います。

 

*尻叩き

 

ある日息子のランスが小学校から帰ってきて「お父さん、学校の他の子はみんなお尻をぶたれているのに、僕はまだぶたれたことがない。だから僕もお尻をぶたれてみたい」と、エリクソンに頼みました。

 

エリクソンが「お尻をぶたなきゃいけない理由がないよ」と言うと、ランスは「じゃあ、理由を作るよ」と言って、病院の窓ガラスを1枚割りました。

 

ランス「さあ、これでお尻をぶたれるよね?」

 

エリクソン「いいや、するべきことは窓ガラスを1枚取り替えることで、お尻をぶつことじゃない

 

ランス「もう1枚割ったよ。さあ、お尻をぶつ?」

 

エリクソン「いいや、窓ガラスを替えるさ

 

そうして、ランスが7枚目の窓ガラスを割りに行っている間に、エリクソンはバルコニーに上がりランスの真鍮製のトラックを手すりの上に並べました。

 

エリクソン「さあ、手すりの上におまえの7台のトラックがある。最初の1台目を滑らせるぞ。そいつが止まってくれて、下に落ちて舗道が壊れなきゃいいんだが。あ、何てこった!ひょっとしたら、2台目は止まるかもね」

 

結局ランスは7台のおもちゃのトラックを失いました。

 

それから3週間後、ランスは楽しそうに学校から帰ってきました。エリクソンはランスを膝の上に乗せると、お尻を軽く叩きました

 

ランス「どうしてぶつの?

 

エリクソン「おまえがお尻をぶってほしいと頼んでいたのを思い出したんだよ。望みを聴いてやっていなかったからね

 

ランス「僕はよくわかっているよ

 

エリクソンにとってそれは、記念のお尻り叩きだったのです。

 

ー「私の声はあなたとともに」ーより

 

通常、親が子どもをぶつときは、ぶつ行為と怒りの感情がセットになっていますよね。エリクソンとランスのやり取りをご覧になるとわかるように、エリクソンは終始一貫冷静です。

 

これは何を意味しているかというと、感情に押し流されて(感情に囚われて)行動していないということです。親として教育的指導をするのに感情に乗っ取られているのなら、それは大人の意識ではなく、親自身の内なる子どもの意識(インナーチャイルド)に感情を支配されている状態です。

 

親自身の子ども意識(インナーチャイルド)が我が子を恐怖でコントロールするためにしている行為であって、けして教育になっていません。親の方がどんなに怒っているのかわかってほしくて手をあげてしまうのです。

 

怒られているとき子どもの未熟な脳では、ネガティブな感情から自分の心を守るので精一杯で思考は働きません。「怒られた=嫌われた=愛されていない」と受け取り、頭の中は恐怖でいっぱいになります。

 

養育されている立場の子どもにとって、保護者から受ける「怒られる=嫌われる=愛されていない」という体験は、今後生きていけるのかの死活問題に等しいのです。

 

だから子どもの脳は、その記憶とそれにまつわる感情を「別の子が怒られる=嫌われる=愛されていない行為を受けた」として闇の中に葬り去るのです。これがトラウマの記憶でその「別の子」というのがインナーチャイルドと呼ばれる副人格です。

 

子ども自身がネガティブな記憶から自分を守るため隔離されたインナーチャイルドは、「存在しないことにされた自分」のことを「嫌われている、愛されていない、理解されない」と思い込んでいます。傷ついていて孤独で愛を求めながら愛を疑い拒んでいる存在です。

 

だから、愛されている、好かれている、恵まれている子どもや周囲から大切にされている人を見ると、癒されていないインナーチャイルドは無性に腹が立ち、怒りが込みあげてくるのです。

 

特に、自分が犠牲者や被害者になっていると思う状況の親の心の内では、「わたしのことは誰も助けてくれない、守ってくれない」というインナーチャイルドの思いに駆られるので、当然のように愛情を要求する我が子に苛立ちを覚えたりするのです。

 

そんなときに子どもに当たって感情をぶつけてしまうと、大人げない自分の振る舞いに自己嫌悪に陥り、闇に葬った自身のインナーチャイルドを益々抑圧しようと躍起になり、心穏やかではいられなくなります。

 

ダメな自分を嫌ったり、できない自分責めたりせず、我慢や無理して「いい人」を演じている自分を手放していきましょう。ダメな自分もできない自分も受け入れてしまえば、我慢や無理をしなくていいのです。

 

まず、自分を1番大切にする。そうすると、インナーチャイルドは自身の大人意識に大切にされている、守られていると感じて安心します。インナーチャイルドが安心すると心は穏やかになり余裕が生まれます。この余裕が人に対する愛となって溢れてくるのです。

 

だから、自分を1番大切にして愛せる人は他者にも自然に愛を放射できる人でもあるのです。自分のことしか愛せない人は、まだ、自分への愛が足りなくて溢れていない状態。無理せず、自分を1番大切にして充電すべきときです。

 

愛の欠乏感を誰かから愛されることで埋めようとしている人は、1番難しい方法を選んでいます。自分のニーズを満たすために他者のニーズを満たして愛されようとするからです。愛が枯渇しているときに他者のニーズを満たすことは苦痛です。「わたしばっかりどうして頑張らなきゃいけないの?」とインナーチャイルドが訴えるから、心穏やかでいられなくなります。

 

エリクソンは、ランスから「僕もお尻をぶたれてみたい」という頼みを断りました。子どもを暴力でしつける考えが嫌いだからです。自分がしたくないことは、ちゃんと「お尻をぶたなきゃいけない理由がないよ」とランスに説明しました。

 

それでランスが病院の窓ガラスを割って理由を作ってきても、怒ることもせず、7枚も窓ガラスを割るのを許したのです。

これはエリクソンが自分のしたくないことを素直に守る人で心に余裕があり、ランスに教育的指導を試みる愛があったからです。

 

暴力で支配するような関係に信頼は生まれないことを、窓ガラス7枚分の忍耐力で示したのです。病院の窓ガラスを割ったことは咎めなかったけれど、それがどんなに残念な気持ちになることかをランスに理解させるため、彼のおもちゃのトラックを7つ手すりから滑らせて壊したのです。

 

窓ガラスやおもちゃのトラックを壊すことが問題じゃなくて、それが意図的に壊されるときどんな気持ちになるのか、それを理解できるかできないかの方が遥かに大事なことだとエリクソンはランスに教えたかったのです。

 

ランスは自分が病院の窓ガラスを7枚割ることで父親がどんな気持ちになったのかを、大切にしていたトラックを7台壊されてわかったのです。そして、子どもをぶたないエリクソンの方針は、それほどのことを起こしても変わらないほど固い決意で守られていることに、ランスは親子関係の信頼の絆を深めたのでしょう。

 

連帯責任だとか言われて、下の妹たちや弟の分まで怒鳴られぶたれることが日常茶飯事で育ったわたしにしてみれば、エリクソンのように子どもの自発性を尊重する親は神様みたいに感じます。

 

エリクソンも精神科医として多くの症例で親子関係の歪みと直面しているので、自身の子どもの教育に細心の注意を払っていたようです。

 

次回はエリクソンの「わたしの声はあなたとともに」の解説を予定しています。

 

わたしのサロン、リブラライブラリーではあなたの心のしくみをホロスコープで解説し、心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題にセルフヘルプで立ち向かえるようサポートします。

 

詳しくはこちら をご覧ください。

 

新メニュー(月の欲求・土星の制限の観念書き換えワーク、キローンの苦手意識を強味に変えるワーク)が加わりました。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。