こんにちは、リブラです。今回は、アニータ・ムアジャーニ著「喜びから人生を生きる」の第18章を解説をしていきます。
第18章「臨死体験についての質疑応答」のあらすじ
Q 自分への愛が強すぎて、利己的で自己中心的になるということはありませんか?
A(アニータ)「わたしたちは、自分が持っていないものを与えることはできません。自分のカップを、自分に対する思いやりでいっぱいにしたとき、初めて他人にも与えられるのです。
利己的な考えは、自分への愛がほとんどないか、あまり多くない状態から生じます。わたしたちは、その不足を埋め合わせようとするのです。他人に対して真の愛情があり過ぎるということがないのと同じように、自分のことを大事にし過ぎるということはありません」
Q スピリチュアルな道を歩んでいるほとんどの人は、エゴがスピリチュアルな成長の邪魔をするので、エゴを追い払うべきだと信じています。あなたがそのように主張しないのはなぜですか?
A「もしエゴを否定すれば、それはもっと強く押し返してくるからです。無条件に自分のエゴを愛し、この人生で自分を表現するための一部だと受け入れることができれば、もはやエゴは問題ではなくなります。それはあなたの成長を邪魔するどころか、役に立ってくれるのです
わたしたちはみんな、エゴを持って生まれています。それは、この世でのほんとうの自分の一部なのです。死んだとき、わたしたちはエゴから解放されますが、生きている間は、エゴと闘うほど、自己批判に苦しむでしょう。
わたしたちが自分のエゴを無条件で愛したとき、初めて他人のエゴも受け入れられるのです
Q 他人への奉仕について、あなたの考えをお聞かせください。
A「奉仕が心からの気持ちで行われるとき、それは自分への愛の最も崇高な形となります。そのような場合、奉仕をしながら、喜びや楽しさを感じるでしょう。
けれど、責任感や義務感から奉仕を行えば、深刻でつらい感じがし、エネルギーが吸い取られるかもしれません。
わたしたちが心から何かを行うとき、それはもはや行為ではなく、わたしたちという存在そのものになります。そのときわたしたちは「地球上で体現する」という奉仕の道具になれるのです。
これは、奉仕の存在であること(心からの奉仕でその存在そのものになること)と奉仕を行うこと(責任感や義務感から行為として奉仕をすること)の違いです。
「地球上で体現する」という奉仕の道具になる状態は、自分と宇宙は別ものではないという理解とともにやってきます。
自分が全体のためにすることは、自分のためにしていることであり、その逆もまた同じだとわかるのです。それは、喜びに満ちた楽しい状態です。
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わたしたち人間にとって、「愛」とは太陽光のようなものだと思います。光合成でエネルギーを得る植物だったら、太陽の光のある無しは即生命の危機に関わります。
ところが、わたしたち人間は直射日光を浴びる機会が少なくても、普通に過ごせてしまったりします。ほんとうは、骨への影響のみならず、免疫システムや自律神経などにとって重要な要素なのですが、日照不足が身体や精神の健康を損なっているのを気づかなかったりします。
身体にとって太陽光が不可欠なのと同様に、わたしたちもほんとうは「愛」なしでは生きていけません。だから、内側に「愛」の根源(神)とつながる魂意識を備えて生まれてきました。その「愛」の根源はすべてとつながっています。
わたしたちが生まれたばかりの頃は、その「愛」の根源(神)に身を委ねて生きるのが当たり前でした。「愛」の根源(神)はすべての意識とつながっているので、神羅万象・万物・人物を様々な形で関わらせて幼いわたしたちが生き残れるようにしていたのです。
でも、目に見える形で自分を生き残らせてくれる物や人に囲まれて暮らすうちに、いつの間にか、わたしたちは自分の内側で見えない「愛」の根源(神)とつながっていることを忘れてしまいます。
根源とのつながりが断たれたわけではありませんが、「見えない「愛」の根源(神)とつながっている」ことを意識できないので、「愛の欠乏感」を抱くようになります。
ほんとうは「愛」なしでは生きていけないわたしたちが「愛の欠乏感」を抱くと、それを埋めなければという衝動に駆られます。そして、わたしたちは無意識に人間関係で「愛の欠乏感」の埋め合わせしようとして苦しむのです。
なぜ苦しむのか?人間関係で愛を補充し合えば、満たされるではないかと思うでしょう。でも、「愛の欠乏感」を抱えたままでは、真に人を愛することはできません。
どうしても、「愛の欠乏感を埋めたい(愛されたい)」が愛する動機になってしまうからです。愛する人のため何かするときでさえ、そこに義務や責任が重石のようにのしかかると、「自分ばかり負担が増えて不公平ではないか?愛されていないではないか?」と損得勘定にうるさいエゴが突っつきます。そして、余計に「愛の欠乏感」を募らせるのです。
この「愛の欠乏感」の苦しみを終わらせる特効薬が、「自己愛」なのです。自分を愛するのに義務や責任は要りません。自分を愛するために損うものは何もありません。損失がなければエゴは文句を言えないので「愛の欠乏感」を痛感することもありません。
ただし、物質次元しか信じないエゴは、自分に愛の投資をするのは、ローリスクかもしれないがローリターンだからおもしろ味に欠けるとぼやくかもしれません。
そんなエゴから優先して、「愛の欠乏感」を無条件の愛で埋めてあげるのです。
アニータは今回の質問で「無条件に自分のエゴを愛し、この人生で自分を表現するための一部だと受け入れることができれば、もはやエゴは問題ではなくなります。それはあなたの成長を邪魔するどころか、役に立ってくれるのです」と答えています。
エゴは自分の現実世界での「生き残り」のために損得勘定にうるさくなっているのです。物質世界を生きるための大事な相棒なのです。生きていくための責任を背負って今日まで生命を維持できたことをエゴのおかげと、労をねぎらってあげましょう。
エゴを敵とせず、味方につければ、「自己愛」はさらにヴァージョンアップできます。なぜなら、損失を嫌うエゴが最もやりたがらないことが奉仕で、「奉仕が心からの気持ちで行われるとき、それは自分への愛の最も崇高な形となる」からです。
自身の未熟で未発達で依存なインナーチャイルドや利己的なエゴの存在を認め、人生を共に生きる仲間として性質の理解に努め、ジャッジメントでそれらのローアーセルフ(低次元の自己)を責め立てず、寛大になれると、それは「二元性の思考」の卒業になります。
すると、魂意識を通して無尽蔵に流れ込む内なる根源(神)とつながり、「地球上で体現する」という奉仕の道具になる状態になり、「自分と宇宙は別ものではない」という理解が訪れます。
アニータが奉仕の質問で回答したように、
自分が全体のためにすることは、自分のためにしていることであり、その逆もまた同じだとわかるのです。
次回も「喜びから人生を生きる」の解説を予定しています。
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