こんにちは、リブラです。今回は、アニータ・ムアジャーニ著「喜びから人生を生きる」の第18章を解説をしていきます。

 

第18章「臨死体験についての質疑応答」のあらすじ

Q 犯罪者や殺人者も、本来の自分であるべきですか?あなたの言うように向こう側の世界に審判がないとしたら、殺人を犯しても逃げられるという意味ですか?

 

A(アニータ)「向こう側の世界では、わたしたちは誰でも純粋な意識なので、非難すべきものが存在しません。向こう側の世界では、自分の状態や行動の理由がはっきりわかります

 

犯罪者や殺人者が、ほんとうの自分を生きているとは思いません。わたしたちは、自分の道を見失い、ほんとうの自分は誰かという真実から離れてしまったときに、破滅に走るのだと思います。

 

わたしたちは、加害者と被害者を『かれら』と『わたしたち』に区別したがりますが、実は『かれら』というのは存在せず、すべてが『わたしたち』なのです。『かれら』は、全体としてのわたしたちの中に問題があることを示す兆候なのです。

 

もし、誰もが自分の真実とつながり、そのすばらしさを知ることができれば、有害なことなど選択しないでしょう。永遠にひとつであると感じている幸せで愛された人は、他人を傷つけることは自分を傷つけることと同じだとわかっているはずです

 

Q もしわたしたち自身が自分の現実を創造しているなら、人は自分がしたことについて、カルマによって罰せられるのでしょうか?

 

A「わたしは決して、悪いカルマという言い方をしません。カルマは、因果応報というよりも、バランスの概念だと思います。

人生のあらゆる側面が、全体を創造するのに必要なのです。

 

さらにわたしは、直線的な時間の中で、生まれ変わって異なった人生を生きるということも、もはや信じていません。

それは、多くの人が信じているカルマという概念の枠組みですが、臨死体験中、過去、現在、未来のあらゆる瞬間は同時に存在しており、まるでわたしたちが時間としてしるものの外側にあるかのようだったのです。

 

わたしたちがポジティブ、ネガティブ、善悪と認識しているものはすべて、完璧で調和のとれた全体の一部にすぎないのです」

 

Q 許すことの大切さについて、人々が言っているのをよく耳にします。向こう側の世界でも、許さなければいけないのでしょうか?

 

A「臨死体験中に、わたしは、自分が許さなかったのは他人ではなく、自分自身だったと悟ったのです。わたしは、許すという言葉を、自分や他者への共感、無条件の愛、思いやりという言葉に置き換えたいと思います。

 

今のわたしは、誰かを判断したり、許しを求める必要性を生み出すかわりに、全体の中で一人ひとりが演じている多種多様な役割を大切にし、それに敬意を払っています。

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

 

アニータが臨死体験により身体から離れることで垣間見た向こう側の世界では、二元性はどこにも存在せず、すべてがひとつにつながっていて、「無条件の愛」で満たされていました。

 

このような世界に「罪と罰」があるはずもないのですが、わたしたちのエゴは何に対しても二元性の思考のフィルターを通すので、あの世に「天国と地獄」があることを想定してしまうのです。

 

「上のごとく下も」の照応(投影)の法則が働くので、あの世で「罪と罰」がないならばこの世でも然りということをわたしたちはよく目にしています。

 

倫理上許されないこと(殺人や戦争)がこの世には絶えず起こっていますが、人が人を裁くことはあっても、天から裁きが下ることはありません。天(源)はすべてとつながっているので、「かれら(加害者)」と「わたしたち(被害者)」を分離せず、全体として捉えるのです。

 

『かれら』というのは存在せず、すべてが『わたしたち』なのです。『かれら』は、全体としてのわたしたちの中に問題があることを示す兆候」というシステムで向こう側の世界がてきているならば、わたしたちのいるこの世でも意識でひとつにつながるワンネス状態は可能です。

 

「かれら(犯罪者)」だけの問題として裁き罪を償わせ、次の犯罪を防ぐというのではなく、犯罪発生の温床を「わたしたち」すべての問題として捉え、解消していくことを天(源)は意図して、「上のごとく下も」の照応(投影)の法則を設定したのでしょう。

 

天(源)はわたしたちに「無条件の愛」=「選択の自由」を与えているので、「上のごとく下も」の照応(投影)の法則に従うことも抗うこともその人次第ですが、アニータの実例からわかるように、抗って二元性の思考で生きると苦しみの連続で命の危機にまで追い込まれ、天(源)と同じようにワンネス意識を基軸に生きれば、奇跡のヒーリングとシンクロニシティが続く人生が待っています。

 

わたしは臨死体験はしていませんが、臨死体験から奇跡の生還をした人や退行催眠の実習でたくさんのモニターさんの過去生のお話を聞く経験をしました。

 

それらの人々から聞いたバルド(中間世、あの世)で共通しているのは、身体から離れるとても安らかで幸せな気分になること、既に亡くなった懐かしい人が会いに来てくれること、(なぜかいつも3人の見知らぬ人の前で)走馬燈のように自分の生涯を眺め、その人生の感想を尋ねられること、そこで答えるときはどんなに悲惨な人生であっても、なぜか「すばらしい人生だった」と言っていることでした。

 

スラム街に生まれて、両親は殺人や薬物取引の犯罪で監獄送りになり、親戚をたらい回しにされて逃げ出し、ストリートチルドレンになってギャングの仲間入りをして最期は刺されて人生が終わったのに、バルドでその人生の感想を尋ねられると、怒りや憤りや妬みや恐怖や絶望や束の間の幸せや人の心の暖かさや冷たさなど、たくさんの感情を体験できて満足だったと答えている自分が不思議でしょうがないと語った人もいました。

 

バルドで人生の感想を尋ねる人々は、どうも審判するために登場するのではなく、人生の旅の感想を純粋に聴取するために居るようです。もし、裁く人々がバルドで登場したとしたら、それはその人の罪悪感が生み出した人物になるのでしょう。

 

地上を天国に変えたいと思うのならば、まず、自分自身を責めたり卑下したり叩いたりしないことです。天(源)も裁かないのに、自分を裁いて罰したら、天(源)の愛に背くことになります。

 

罪悪感は自分を小さく制限し、その圧力でストレスを溜め、ネガティブなエネルギーを周囲にまき散らすだけです。自分を裁かず、自分だけは自身の味方であり続ける姿勢を取れば、自己信頼が育まれます。

 

自分を信頼することは、最も強い自身の顕在意識と潜在意識の絆になり、心(思考・感情)と身体と魂意識の三位一体の状態をつくり、いつでも天(源)と共振・共鳴反応しやすくなります。

 

次回も「老子が教えるタオの哲学」の解説を予定しています。

 

わたしのサロン、リブラライブラリーではあなたの心のしくみをホロスコープで解説し、心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題にセルフヘルプで立ち向かえるようサポートします。

 

詳しくはこちら をご覧ください。

 

新メニュー(月の欲求・土星の制限の観念書き換えワーク、キローンの苦手意識を強味に変えるワーク)が加わりました。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。