こんにちは、リブラです。今回は、アニータ・ムアジャーニ著「喜びから人生を生きる」の第8章を解説をしていきます。

 

第8章「神の愛を体験する」のあらすじ

アニータは言葉で表現するのが難しい臨死体験の世界を、倉庫の灯を喩えにして説明を試みました。

 

巨大で真っ暗な倉庫をイメージします。そこにたった1個の懐中電灯だけを頼りにして、その光で見えるものがすべてだと思って生活していたとします。自分が照らすものだけを見ることができ、見たものの中でも自分がすでに知っているものだけを理解できる世界ーそれが身体の中に入って生きていた臨死体験前のアニータが感じていた世界です。

 

その倉庫に誰かが電灯のスイッチを入れたとイメージします。倉庫全体が照らされ、そこにあるすべてが見えて、自分の認識を超えたものも多数存在し、様々な色彩が輝き、聞いたこともないような、臨場感あふれる素晴らしい旋律がその部屋中に響き渡っているのです。

 

しかも、そこに存在するものは互いに関わり合い、相応しい場所にぴったりと当てはまっているのです。懐中電灯で照らされただけを<現実>と見ていたときには気づかなかったことも、全部が照らされて見えることで、夢にも思わなかった素晴らしい色や音や感触とともにそこにあることがわかるのです。

 

そして、自分が生き生きした無限で素晴らしいものの一部であり、目や耳でわかるものを超えた大きなタペストリーの一部だという強烈な感覚を得るのです。

 

再びスイッチが消えたとしても、この体験における理解や明晰さ、驚異の念や活気は奪われません。そこに何があり、それをどのように手に入れ、何ができるのかは、小さな懐中電灯で暮らしていた時よりも、はるかに多くのことを知っています。

 

アニータが向こう側の世界でこのような理解を得て、すべてを包み込む意識を楽しみながら探検を続けると、6年前に亡くした父や癌で死去した親友ソニに出会いました。かれらは生前の様子と全く違い、無条件の愛に満たされ安らぎに溢れていました。

 

アニータが「つらい人生だった。やっと家に帰ってきた気がする」というと父は、「でも、アニータ、おまえはいつもここにいたんだよ。これまでも、これからもずっと。そのことを忘れるんじゃない。今はまだここに来るべき時ではないんだよ。でも、わたしと一緒に行くか、身体に戻るか、おまえが自分で決めなさい」といいました。

 

アニータは「もうあの身体に戻りたくない」といいましたが、そのとき、自分が意識を向けたものは何でも、自分の目の前に現れるような気がしました。自分が生きるか、このまま死ぬかは決断次第というのも理解していました。

 

その上で「戻らない」と決意すると、自分の身体が死んでいき、医師が「臓器機能不全による死だ」と家族に説明している場面を目にしました。

 

夫や母が深い悲しみに身を震わせ、死に目に間に合わなかった兄がショックで立ち尽くす様子に気持ちが引き込まれそうになると、再びその自分の感情から引き離され、もっと偉大なストーリーが展開しつつあるという安堵感に包まれました。

そして、たとえ戻らない選択をしても、生命という壮大なタペストリーの中で、なるようになるのだと知りました。

 

そしてアニータは、「自分がほんとうは誰か」に気づき、「ほんとうの自分の素晴らしさ」を理解した今、もし身体に戻る選択をすれば、病気は急速に治癒するだろうとわかりました。「身体は、自分の内側の状態を反映したものにすぎない」からです。

 

アニータは「まだ実現していない目的があるような感じがする。それはなんだろう?」と思いを巡らしました。

 

自分がすべきことを探さす必要はなく、自然に目の前に現れて来ること、何千人、何万人という人たちを手助けすることと関係すること、臨死体験で得たメッセージを分かち合うのだろうこと、それらは自然な展開に任せれば良いとわかったのです。

 

自然の展開へ到達するためにすべきことは「ありのままの自分」でいることだけ。わたしたちの本質は純粋な愛で、愛であることと「ほんとうの自分」であることは一つであるとアニータは悟ったのです。

 

もし、わたしたちがみんな一つで、無条件の愛という全体のさまざまな側面であるなら、わたしちはみんな愛の存在だということにアニータは気づきました。

「ほんとうの自分」でいて、自分の真実を生き、愛であることが、人生の唯一の目的だと知ったのです。

 

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身体から離れると「自分が意識を向けたものは何でも、自分の目の前に現れる」ということが瞬時に起こるのだと、この章のアニータの記述を読んで、わたしの内側の声(魂意識)が「そうだ!その通り!」と激しく同意していしました。

 

わたしたちは物質次元の身体の制約を受けるので、意識を向けても現象化までに時間を要します。ちょっと思い浮かべるだけで、その展開がイメージの中で先に起こるのが見えると、自分の死のシーンを見て、身体に戻る選択もありと考え直したアニータみたいなことができるんだなと、5次元感覚のヒントをもらえた気がしました。

 

わたしたちが<現実>と呼んでいるこの世界は、真っ暗な倉庫の中の小さな点に過ぎず、もっと壮大なスケールの世界が完璧なシステムでわたしたちの世界を包んでいるーそんな視点でこの世界を眺めると、目先に見えていることだけで形創る<現実>を信じて生きるのは、闇の中で手探り状態で歩くように映ります。

 

アニータが身体の中にいたときは、エゴの信じるものにしか意識を向けることができませんでした。そして、エゴは怖れを動機として行動を選択するので、意識の矛先もリスク回避に絞られます。安心・安楽な生き残りが主な人生の目的になります。

 

しかし、幽体離脱したアニータが知った世界(懐中電灯ではなく、全体を照らす灯で観る世界)から眺めると、「ほんとうの自分」でいて、自分の真実を生き、愛であることが、人生の唯一の目的です。

 

「大いなる存在」と意識でわたしたちはつながっています。その点では常にワンネス状態です。だからこそ、個としての仮想現実を生きる試みをしたくなったのだと思います。

 

「大いなる存在」は、無限に拡がる自分自身の可能性を実験してみたくなったのでしょう。だから、自分自身の分霊を個別の魂として肉体に宿らせて、記憶も消して、物質次元しか信じないエゴと組ませて、人間の転生を繰り返すのです。

 

元々、物質次元とはかけ離れた、見えない波動としての魂意識が肉体に閉じ込められたのですから、生き難いのも当然です。しかも、一緒に人生を旅するエゴは、物質次元だけが現実と信じ、それを超える世界を認めません。

 

けれども、わたしたちの本質である魂意識は、「ほんとうの自分」を思い出して生きようとするので、エゴの狭い視野を凌駕することが求められます。

 

わたしたちは、エゴの狭い視野と魂意識の広大な視野を何度も何度も行ったり来たりしながら、意識を拡大させて、懐中電灯で照らすことのできる範囲を超えて、無限に拡がる自分自身の可能性を見つけに行こうとします。

 

それを自分だけでやろうとするから、エゴは苦しむのです。「怖れ」はとりあえず脇に置き、「喜び」を中心にして選択すれば、魂意識と共同創造で進むことができます。

 

「喜び」を周波数をずっと放射しているのは魂意識なので、その「喜び」に共鳴すれば、魂意識と共同創造で進むことができます。そして、その「喜び」に共鳴するところには、必ず無限に拡がる自分自身の可能性があります。

 

魂意識と共同創造で進むことは、真っ暗な倉庫に電灯を照らすのと同じ状態になるので、一瞬にして無限に拡がる自分自身の可能性を見つけられるのです。だから、アニータは「自然な展開に任せれば良い」とわかったのです。

 

「怖れ」を動機として選択すれば、エゴが握った懐中電灯で手元を照らしながら生きる人生。「喜び」を動機として選択すれば、魂意識が電灯のスイッチを入れるので、無限に拡がる自分自身の可能性が見つかり、自然な展開に任せれば良い人生。

 

どちらを選んだとしても、そこには神の愛が流れています。闇を選んで光を知る、光を選んで闇を知る、どちらからでも体験できるように自由選択を与えるのが、神の愛=無条件の愛だからです。

 

次回は「老子が教えるタオの哲学」の解説を予定しています。

 

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最後まで読んでくださり、ありがとうございます。